・・・しかし緊張と、苦悩と、克服とのないような恋は所詮浅い、上調子なものである。今日の娘の恋は日に日に軽くなりつつある。さかしく、スマートになりつつある。われらの祖先の日本娘はどんな恋をしたか、も少し恋歌を回顧してみよう。言にいでて言はば・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・これはもとより望ましきものではないが、それは人間苦悩の哀れむべき相であって、またそれを通じて美しき人間性の発露もあり得る。日本民族独特の情死の如きは、もっと鞏固な意志と知性とが要求されるとはいえ、またそうでなければ現われることのできない人心・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・戦争には、残虐や、獣的行為や、窮乏苦悩が伴うものであるが、それでも、有害で反動的な悪制度を撤廃するのに役立った戦争が歴史上にはあった。それらは、人類の発展に貢献したことから考えて是認さるべきである。で、プロレタリアートは、現在の戦争に対して・・・ 黒島伝治 「反戦文学論」
・・・と答えると同時に、忍び音では有るが激しく泣出して終った。苦悩が爆発したのである。「何も彼も皆わたくしの恐ろしい落度から起りましたので。」 自ら責めるよりほかは無かったが、自ら責めるばかりで済むことでは無い、という思が直に※深く考・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ このごろだんだん、自分の苦悩について自惚れを持って来た。自嘲し切れないものを感じて来た。生れて、はじめてのことである。自分の才能について、明確な客観的把握を得た。自分の知識を粗末にしすぎていたということにも気づいた。こんな男を、いつま・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・そいつが、おれの苦悩のはじまりなんだ。けれども、もう、いい。おれは、愛しながら遠ざかり得る、何かしら強さを得た。生きて行くためには、愛をさえ犠牲にしなければならぬ。なんだ、あたりまえのことじゃないか。世間の人は、みんなそうして生きている。あ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・その作品の底に、作家の一人間としての愛情、苦悩が少しも感ぜられません。作家の一人間としての苦悩が、幽かにでも感ぜられないような作品は、私にとってなんの興味もございません。あなたの作品が、「やまと新報」に連載せられていたのは、あれは、あなたが・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・最も苦悩の大いなる場合、人は、だまって微笑んでいるものである。」虫の息。三十分ごとに有るか無しかの一呼吸をしているように思われた。蚊の泣き声。けれども痛苦はいよいよ劇しく、頭脳はかえって冴えわたり、気の遠くなるような前兆はそよともなかった。・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・てもう一ぺん考え直してみると、異常な興奮に駆られ家を飛び出した男が、夜風に吹かれて少し気が静まると同時に、自分の身すぼらしい風体に気がついておのずから人目を避けるような心持ちになり、また一方では内心の苦悩の圧迫に追われて自然に暗い静かな所を・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・波が荒れて動揺のすさまじい時だけはさすがにこの音も聞こえなかったが、そういう時にはまた船よいの苦悩がさらにはなはだしかった。 汽船会社は無論乗客の無聊を慰めるために蓄音機を備えてあるので、また事実上多数の乗客は会社の親切を充分に享楽して・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
出典:青空文庫