・・・最後に社宅へ帰った後も、――何でも常子の話によれば、彼は犬のように喘ぎながら、よろよろ茶の間へはいって来た。それからやっと長椅子へかけると、あっけにとられた細君に細引を持って来いと命令した。常子は勿論夫の容子に大事件の起ったことを想像した。・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ やっと書き上げた電報を店員の一人に渡した後、洋一は書き損じた紙を噛み噛み、店の後にある台所へ抜けて、晴れた日も薄暗い茶の間へ行った。茶の間には長火鉢の上の柱に、ある毛糸屋の広告を兼ねた、大きな日暦が懸っている。――そこに髪を切った浅川・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 僕は台所の方に行くのをやめて、今度は一生懸命でお茶の間の方に走った。 お母さんも障子を明けはなして日なたぼっこをしながら静かに縫物をしていらしった。その側で鉄瓶のお湯がいい音をたてて煮えていた。 僕にはそこがそんなに静かなのが・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・と嘗めては、ちびりと飲む。塩辛いきれの熟柿の口で、「なむ、御先祖でえでえ」と茶の間で仏壇を拝むが日課だ。お来さんが、通りがかりに、ツイとお位牌をうしろ向けにして行く……とも知らず、とろんこで「御先祖でえでえ。」どろりと寝て、お京や、蹠である・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ と軽い返事で、身軽にちょこちょこと茶の間から出た婦は、下膨れの色白で、真中から鬢を分けた濃い毛の束ね髪、些と煤びたが、人形だちの古風な顔。満更の容色ではないが、紺の筒袖の上被衣を、浅葱の紐で胸高にちょっと留めた甲斐甲斐しい女房ぶり。些・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ そういって岡村は洋燈を手に持ったなり、あがりはなの座敷から、直ぐ隣の茶の間と云ったような狭い座敷へ予を案内した。予は意外な所へ引張り込まれて、落つきかねた心の不安が一層強く募る。尻の据りが頗る悪い。見れば食器を入れた棚など手近にある。・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・と、太郎はさっそく、着物を着ると、みんなの話している茶の間から入り口の方へやってきました。 おじいさんは、朝家を出たときの仕度と同じようすをして、しかも背中に、赤い大きなかにを背負っていられました。「おじいさん、そのかにどうしたの?・・・ 小川未明 「大きなかに」
・・・ お光は店を揚って、脱いだ両刳りの駒下駄と傘とを、次の茶の間を通り抜けた縁側の隅の下駄箱へ蔵うと、着ていた秩父銘撰の半纏を袖畳みにして、今一間茶の間と並んだ座敷の箪笥の上へ置いて、同じ秩父銘撰の着物の半襟のかかったのに、引ッかけに結んだ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・彼も流石に慄然としたそうだが、幸に女房はそれを気が付かなかったらしいので、無理に平気を装って、内に入ってその晩は、事なく寝たが、就中胆を冷したというのは、或夏の夜のこと、夫婦が寝ぞべりながら、二人して茶の間で、都新聞の三面小説を読んでいると・・・ 小山内薫 「因果」
・・・では、昼間食事の時に頼めばよいということになるが、茶の間にはペンがない。二階の書斎まで取りに行くのが面倒くさい。取りに上らせようと思っているうちに、もう忘れてしまう。 それでも、さすがに金がなくなって来ると、あわてて家政婦に行かせるのだ・・・ 織田作之助 「鬼」
出典:青空文庫