・・・瀬戸物町では白い紐の前掛けだったが、道修町では茶色の紐でした。ところが、それから二年のちにはもう私は、靱の乾物屋で青い紐の前掛をしていました。はや私の放浪癖が頭をもたげていたのでしょう。が、一つには私は人一倍物事に熱中する代りに、すぐそれに・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ その時、トンビを着て茶色のソフトを被った眼の縁の黝い四十前後の男が、キョロキョロとはいって来ると、のそっと私の傍へ寄り、「旦那、面白い遊びは如何です。なかなかいい年増ですぜ」「いらない。女子大出の女房を貰ったばかりだ」済まして・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 茶色の枯れたような冬の芽の中に既にいま頃から繚乱たる花が用意されているのだと思うと心が勇む気がする。そして春になると又春の行事が私たちを待っている。 黒島伝治 「四季とその折々」
・・・銃のさきについていた剣は一と息に茶色のちぢれひげを持っている相手の汚れた服地と襦袢を通して胸の中へ這入ってしまった。相手はぶくぶくふくれた大きい手で、剣身を掴んで、それを握りとめようとした。同時に、ちぢれた鬚を持った口元を動かして何か云おう・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・ 竪坑の電球が、茶色に薄ぼんやりと、向うに見えた。そして、四五人の人声が伝って来た。「誰れだい、たったこれっぽちしか入れてねえんは。」市三が、さきに押して来てあった鉱車を指さして、役員の阿見が、まつ毛の濃い奥目で、そこら中を睨めまわ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・日に焼けて、茶色になって、汗のすこし流れた其痛々敷い額の上には、たしかに落魄という烙印が押しあててあった。悲しい追憶の情は、其時、自分の胸を突いて湧き上って来た。自分も矢張その男と同じように、饑と疲労とで慄えたことを思出した。目的もなく彷徨・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・残雪の間には、崖の道まで滲み溢れた鉱泉、半ば出来た工事、冬を越しても落ちずにある茶色な椚の枯葉などが見える。先生は霜のために危く崩れかけた石垣などまで見て廻った。 この別荘がいくらか住まわれるように成って、入口に自然木の門などが建った頃・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・この辺の家の窓は、ごみで茶色に染まっていて、その奥には人影が見えぬのに、女の心では、どこの硝子の背後にも、物珍らしげに、好い気味だと云うような顔をして、覗いている人があるように感ぜられた。ふと気が付いて見れば、中庭の奥が、古木の立っている園・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・少女は耳の附け根まであかくなった顔を錆びた銀盆で半分かくし、瞳の茶色なおおきい眼を更におおきくして彼を睨んだ。青扇はその視線を片手で払いのけるようにしながら、「その胸像の額をごらんください。よごれているでしょう? 仕様がないんです。」・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・あの美しい緑色は見えなくなって、さびたひわ茶色の金属光沢を見せたが、腹の美しい赤銅色はそのままに見られた。 三 杏仁水 ある夏の夜、神田の喫茶店へはいって一杯のアイスクリームを食った。そのアイスクリームの香味には普・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
出典:青空文庫