・・・佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて女の走り行くを見たり。中空を走る様に思われたり。待てちゃアと二声ばかり呼ばりたるを聞けりとぞ。 修羅の巷を行くものの、魔界の姿見るが・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・いつも松露の香がたつようで、実際、初茸、しめじ茸は、この落葉に生えるのである。入口に萩の枝折戸、屋根なしに網代の扉がついている。また松の樹を五株、六株。すぐに石ころ道が白く続いて、飛地のような町屋の石を置いた板屋根が、山裾に沈んで見えると、・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・生垣の根にはひとむらの茗荷の力なくのびてる中に、茗荷茸の花が血の気少ない女の笑いに似て咲いてるのもいっそうさびしさをそえる。子どもらふたりの心に何のさびしさがあろう。かれらは父をさしおき先を争うて庭へまわった。なくなられたその日までも庭の掃・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・毛穴から火が吹きだすほどの熱、ぬらぬらしたリパード質に包まれた結核菌がアルコール漬の三月仔のような不気味な恰好で肝臓のなかに蠢いているだろう音、そういうものを感ずるだけではない。これから歩かねばならないアパートまで十町の夜更けの道のいやな暗・・・ 織田作之助 「道」
・・・ 書中のおもむきは、過日絮談の折にお話したごとく某々氏等と瓢酒野蔬で春郊漫歩の半日を楽もうと好晴の日に出掛ける、貴居はすでに都外故その節お尋ねしてご誘引する、ご同行あるならかの物二三枚をお忘れないように、呵々、というまでであった。 ・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・結核菌が、からだのあちこちを虫食いはじめていたのでした。それでも、ずいぶん元気で、田舎にもあまり帰りたがらず、入院もせず、戸山が原のちかくに一軒、家を借りて、同郷のWさん夫婦にその家の一間にはいってもらって、あとの部屋は全部、自分で使って、・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・晩の御馳走は、蛙の焼串、小さい子供の指を詰めた蝮の皮、天狗茸と二十日鼠のしめった鼻と青虫の五臓とで作ったサラダ、飲み物は、沼の女の作った青みどろのお酒と、墓穴から出来る硝酸酒とでした。錆びた釘と教会の窓ガラスとが食後のお菓子でした。王子は、・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・尤も屠蘇そのものが既に塵埃の集塊のようなものかもしれないが、正月の引盃の朱漆の面に膠着した塵はこれとは性質がちがい、また附着した菌の数も相当に多そうである。日当りの悪い部屋だと塵の目立たぬ代りに菌数は多いであろう。アルコールで消毒はされるか・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・ ついでながら、桿状菌バクテリアの語源がギリシア語のステッキであるのはちょっとおもしろい。病魔のステッキが体内をあばれ回るのである。 日本で製造して売っている金具付きのステッキはみんな少し使っていると金具がもげたり、はじけたり、へこ・・・ 寺田寅彦 「ステッキ」
・・・丁度四歳の初冬の或る夕方、私は松や蘇鉄や芭蕉なぞに其の年の霜よけを為し終えた植木屋の安が、一面に白く乾いた茸の黴び着いている井戸側を取破しているのを見た。これも恐ろしい数ある記念の一つである。蟻、やすで、むかで、げじげじ、みみず、小蛇、地蟲・・・ 永井荷風 「狐」
出典:青空文庫