・・・ あやまった人を愛撫した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことに依ってつけようと思った。早春の一日である。そのつきの生活費が十四、五円あった。それを、そっくり携帯・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・ と、竹藪にかこまれ、荒廃した病院のような感じの彼のアパートに導かれた時には、すでにあたりが薄暗くなり、寒気も一段ときびしさを加えて来たように思われた。 彼の部屋は、二階に在った。「お母さん、ただいま。」 彼は部屋へ入るなり・・・ 太宰治 「女神」
・・・わたくし達は又既に百花園の荒廃に帰して今更これを訪うべき価値のないことをも熟知していた。さればこの場合に之を云々するのは、恰も七十の老翁を捉えて生命保険の加入契約を勧告し、或はまた玉の井の女に向って悪疾の有無を問うにもひとしく、あまりにばか・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・しかしこの名園は災禍の未だ起らざる以前既に荒廃して殆その跡を留めていなかった。枕橋のほとりなる水戸家の林泉は焦土と化した後、一時土砂石材の置場になっていたが、今や日ならずして洋式の新公園となるべき形勢を示している。吾人は日比谷青山辺に見るが・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・かつて何もなかった処であるから、荒廃でもなく破壊でもない。放棄せられたまま顧みられない風景とでもいうのであろう……。 セメントの新道路は鉄道線路の向へ行っても、まだ行先が知れない。初めわたくしはほどなく荒川放水路の土手に達するつもりであ・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・荒廃のいとも気高き眺めの中には、美しき昔のさまの影もあはれや、遊楽後を絶ちて唯だ変りなきその池水のみ、昔の秩序と静寧の中に息ひたるこそ嬉しけれ。という句がある。 自分が頻に芝山内の霊廟を崇拝して止まないのも全・・・ 永井荷風 「霊廟」
一 太十は死んだ。 彼は「北のおっつあん」といわれて居た。それは彼の家が村の北端にあるからである。門口が割合に長くて両方から竹藪が掩いかぶって居る。竹藪は乱伐の為めに大分荒廃して居るが、それでも庭からそこらを陰鬱にして居る。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・幸にして今日に及びようやく旧に復するの模様あれども、空しく二年の時日を失い、生徒分散、家屋荒廃、書籍を失い器械を毀ち、その零落、名状するに堪えず。あたかも文学の気は二年の間窒塞せしが如し。天下一般の大損亡というべし。先にこの開成所をして平人・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・うちつづく戦争と理性殺戮の年々に、日本の文化と文学にのこされたものは荒廃でしかなかった。そして、軍部と軍国主義教育は前線で、日本人民がそれを自分たちの行為として承認することを不可能と感じるほどの惨虐が行われた。敵という関係におかれた他の国の・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十巻)」
・・・という兄について彼は部落を歩きまわり、ことごとに部落の荒廃を目撃する。盆の十四日が百姓平次郎に鉈をふるわせる厄日であり、室三次の命の綱である馬が軍隊に徴発され、その八十円を肥料屋と高利貸に役場で押えられた室三次の女房は絶望して発狂した等々。・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
出典:青空文庫