・・・は、決して、そんなに都合よく割り切れず、此の興覚めの強力な実体を見た芸術家は立って、ふらふら外へ出て、そこらを暫く散歩し、やがてまた家へ帰り、部屋を閉め切って、さてソファにごろりと寝ころび、部屋の隅の菖蒲の花を、ぼんやり眺め、また徐ろに立ち・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・自転車のうしろには、菖蒲の花束が載せられていた。白や紫の菖蒲の花が、ゆらゆら首を振っていた。 その日の昼すこし前に宿を引き上げて、れいの鞄を右手に、氷詰めの鮎の箱を左手に持って宿から、バスの停留場まで五丁ほどの途を歩いた。ほこりっぽい田・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・理由のない不安と憂鬱の雰囲気のようなものが菖蒲や牡丹の花弁から醸され、鯉幟の翻る青葉の空に流れたなびくような気がしたものである。その代り秋風が立ち始めて黍の葉がかさかさ音を立てるころになると世の中が急に頼もしく明るくなる。従って一概に秋を悲・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・門の小流れの菖蒲も雨にしおれている。もうおおぜい客が来ていて母上は一人一人にねんごろに一別以来の辞儀をせられる。自分はその後ろに小さくなって手持ちぶさたでいると、おりよくここの俊ちゃんが出て来て、待ちかねていたというふうで自分を引っ張ってお・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・堀切橋の東岸には菖蒲園の広告が立っているからである。下流には近く四木の橋が見え、荷車や自動車の往復は橋ごとに烈しくなる。四木橋からその下流にかけられた小松川橋に至る間に、中川の旧流が二分せられ、その一は放水路に入り、更に西岸の堤防から外に出・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・百花園から堀切の菖蒲園も近くなって来る。堀切のあたりは放水路の流がまだ出来ない時代には樹木の繁った間に小川が流れ込んでいた全くの田園で、菖蒲を植えた庭も四、五カ処はあって、いずれも風流を喜ぶ人にはその名を知られていたが、田が埋められて町にな・・・ 永井荷風 「向島」
・・・西瓜の粒が大きく成るというので彼は秋のうちに溝の底に靡いて居る石菖蒲を泥と一つに掻きあげて乾燥して置く。麦の間を一畝ずつあけておいてそこへ西瓜の種を下ろす。畑のめぐりには蜀黍をぎっしり蒔いた。麦が刈られてからは日は暑くなる。西瓜の嫩葉は赤蠅・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 芭蕉も初めは菖蒲生り軒の鰯の髑髏のごとき理想的の句なきにあらざりしも、一たび古池の句に自家の立脚地を定めし後は、徹頭徹尾記実の一法に依りて俳句を作れり。しかもその記実たる自己が見聞せるすべての事物より句を探り出だすにあらず、記・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・青い葉の菖蒲に紫の花が咲いているのを代赭色の着物を着た舎人が持って行く姿があざやかであるとか、月の夜に牛車に乗って行くとその轍の下に、浅い水に映った月がくだけ水がきららと光るそれが面白い、と清少納言の美感は当時の宮廷生活者に珍しく動的である・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・例年簷に葺く端午の菖蒲も摘まず、ましてや初幟の祝をする子のある家も、その子の生まれたことを忘れたようにして、静まり返っている。 殉死にはいつどうしてきまったともなく、自然に掟が出来ている。どれほど殿様を大切に思えばといって、誰でも勝手に・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫