・・・この日は風のない暖かなひよりで、樺林の間からは、菫色の光を帯びた野州の山々の姿が何か来るのを待っているように、冷え冷えする高原の大気を透してなごりなく望まれた。 いつだったかこんな話をきいたことがある。雪国の野には冬の夜なぞによくものの・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・もり蕎麦は、滝の荒行ほど、どっしりと身にこたえましたが、そのかわり、ご新姐――お雪さんに、(おい、ごく内証と云って、手紙を托けたんです。菫色の横封筒……いや、どうも、その癖、言う事は古い。(いい加減に常盤御前とこうです。どの道そんな蕎麦だか・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・の上を見ると、薄紫色の状袋の四隅を一分ばかり濃い菫色に染めた封書がある。我輩に来た返事に違いない。こんな表の状袋を用るくらいでは少々我輩の手に合わん高等下宿だなと思ながら「ナイフ」で開封すると、「御問合せの件に付申上候。この家はレデーの所有・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・ 人間のねうちは着物ではないと云って、小学校の四、五年ごろ菫色のカシミヤの袴の色のさめたのを、仕立て直して、襞のひろい方へもと上の方だった狭い褪せたあとの出たのを穿かされたのも覚えている。それを器用に染め直して、お前は女の子だからこんな・・・ 宮本百合子 「親子一体の教育法」
・・・彼は美しいものには何ものにも直ちに心を開く自由な旅行者として、たとえば異郷の舗道、停車場の物売り場、肉饅頭、焙鶏、星影、蜜柑、車中の外国人、楡の疎林、平遠蒼茫たる地面、遠山、その陰の淡菫色、日を受けた面の淡薔薇色、というふうに、自分に与えら・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫