・・・お嬢さんもじっと彼の顔へ落着いた目を注いでいる。二人は顔を見合せたなり、何ごともなしに行き違おうとした。 ちょうどその刹那だった。彼は突然お嬢さんの目に何か動揺に似たものを感じた。同時にまたほとんど体中にお時儀をしたい衝動を感じた。けれ・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ 女の声は落着いた中に、深い感動を蔵している。神父はいよいよ勝ち誇ったようにうなじを少し反らせたまま、前よりも雄弁に話し出した。「ジェズスは我々の罪を浄め、我々の魂を救うために地上へ御降誕なすったのです。お聞きなさい、御一生の御艱難・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・しかし君のことはよくお話ししておいたから……万事が落着するまでは君は私から遠退いているようにしてくれたまえ。送って来ちゃいけませんよ」 それから矢部は彼の方に何か言いかけようとしたが、彼に対してさえ不快を感じたらしく、監督の方に向いて、・・・ 有島武郎 「親子」
・・・フランシスの眼は落着いた愛に満ち満ちてクララの眼をかき抱くようにした。クララの心は酔いしれて、フランシスの眼を通してその尊い魂を拝もうとした。やがてクララの眼に涙が溢れるほどたまったと思うと、ほろほろと頬を伝って流れはじめた。彼女はそれでも・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・そして黒い上衣と光るシルクハットとのために、綺麗に髯を剃った、秘密らしい顔が、一寸廉立った落着を見せている。 やはり廉立ったおちつきを見せた頭附をして検事の後の三人目の所をフレンチは行く。 監獄の廊下は寂しい。十五人の男の歩く足音は・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 思わず、そのとき渠は蹲んだ、そして煙草を喫んだ形は、――ここに人待石の松蔭と同じである―― が、姿も見ないで、横を向きながら、二服とは喫みも得ないで、慌しげにまた立つと、精々落着いて其方に歩んだ。畠を、ややめぐり足に、近づいた時で・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 若い時から、諸所を漂泊った果に、その頃、やっと落着いて、川の裏小路に二階借した小僧の叔母にあたる年寄がある。 水の出盛った二時半頃、裏向の二階の肱掛窓を開けて、立ちもやらず、坐りもあえず、あの峰へ、と山に向って、膝を宙に水を見ると・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・の湯の精神である、茶の湯は人に見せるの人に聴せるのという技芸ではなく、主人それ自身客それ自身が趣味の一部分となるのである、何から何まで悉く趣味の感じで満たされて居るから、塵一つにも眼がとまる、一つ落着が悪くとも気になる、庭の石に土がつい・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・民子を見にゆくというほどの心ではないが、一寸民子の姿が目に触れれば気が落着くのであった。何のこったやっぱり民子を見に来たんじゃないかと、自分で自分を嘲った様なことがしばしばあったのである。 村の或家さ瞽女がとまったから聴きにゆかないか、・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・その結果が沼南のイツモ逆さに振って見せる蟇口から社を売った身代金の幾分を吐出して目出たく無事に落着したそうだ。そうかと思うと一方には、代がわりした『毎日新聞』の翌々日に載る沼南署名の訣別の辞のゲラ刷を封入した自筆の手紙を友人に配っている。何・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
出典:青空文庫