・・・ 馴れぬ風土の寒風はひとしおさすらいの身に沁み渡り、うたた脾肉の歎に耐えないのであったが、これも身から出た錆と思えば、落魄の身の誰を怨まん者もなく、南京虫と虱に悩まされ、濁酒と唐辛子を舐めずりながら、温突から温突へと放浪した。 しか・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・彼はそれを見ながら、落魄した男の姿を感じた。その男の子供に対する愛を感じた。そしてその子供が幼い心にも、彼らの諦めなければならない運命のことを知っているような気がしてならなかった。部屋のなかには新聞の付録のようなものが襖の破れの上に貼ってあ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 彼の父母は元は由緒ある武士だったのが、北条氏のため房州に謫せられ、落魄して漁民となったのだといわれているが、彼自身は「片海の石中の賤民が子」とか、「片海の海人が子也」とかいっている。ともかく彼が生まれ、育ったころには父母は漁民として「・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・日に焼けて、茶色になって、汗のすこし流れた其痛々敷い額の上には、たしかに落魄という烙印が押しあててあった。悲しい追憶の情は、其時、自分の胸を突いて湧き上って来た。自分も矢張その男と同じように、饑と疲労とで慄えたことを思出した。目的もなく彷徨・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・中には茫然と眺め入って、どうしてその日の夕飯にありつこうと案じ煩うような落魄した人間も居る。樹と樹との間には、花園の眺めが面白く展けて、流行を追う人々の洋傘なぞが動揺する日の光の中に輝く光影も見える。 二人は鬱蒼とした欅の下を択んだ。そ・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・人は落魄して、窮困の中に年をとって行くと、まず先に笑うことから忘れて行くものかも知れない。 戦争が長びいて、瓦斯もコークスも使えなくなって、楽屋の風呂が用をなさなくなると、ほどもなく、爺さんは解雇されたと見えて、楽屋口から影の薄い姿を消・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ 魯迅は十三の年、可愛がってくれていた祖父が獄舎につながれるようなことになってから極度に落魄して、弟作人と一緒に母方の伯父の家にあずけられた。魯迅は「そこの家の虐遇に堪えかねて間もなく作人をそこに残して自分だけ杭州の生家へ帰った」そして・・・ 宮本百合子 「兄と弟」
・・・に自ら煩わされなければならない、落魄に瀕した旧貴族階級の典型のようなものであったらしい。それにもかかわらず、社交界の伝統的な重い扉は、まだ艷を失わぬベルニィ夫人の手によってバルザックの目の前に開かれた。 若い情熱的なオノレ・ド・バルザッ・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
出典:青空文庫