・・・が、博士は悠然と葉巻の煙を輪に吹きながら、巧みに信用を恢復した。それは医学を超越する自然の神秘を力説したのである。つまり博士自身の信用の代りに医学の信用を抛棄したのである。 けれども当人の半三郎だけは復活祝賀会へ出席した時さえ、少しも浮・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
横浜。 日華洋行の主人陳彩は、机に背広の両肘を凭せて、火の消えた葉巻を啣えたまま、今日も堆い商用書類に、繁忙な眼を曝していた。 更紗の窓掛けを垂れた部屋の内には、不相変残暑の寂寞が、息苦しいくらい支配していた。その・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 牧野はさも疲れたように、火鉢の前へ寝ころんだまま、田宮が土産に持って来たマニラの葉巻を吹かしていた。「この家だって沢山ですよ。婆やと私と二人ぎりですもの。」 お蓮は意地のきたない犬へ、残り物を当てがうのに忙しかった。「そう・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・北京にある日本公使館内の一室では、公使館附武官の木村陸軍少佐と、折から官命で内地から視察に来た農商務省技師の山川理学士とが、一つテエブルを囲みながら、一碗の珈琲と一本の葉巻とに忙しさを忘れて、のどかな雑談に耽っていた。早春とは云いながら、大・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・ 僕は葉巻を銜えたまま、舟ばたの外へ片手を下ろし、時々僕の指先に当る湘江の水勢を楽しんでいた。譚の言葉は僕の耳に唯一つづりの騒音だった。しかし彼の指さす通り、両岸の風景へ目をやるのは勿論僕にも不快ではなかった。「この三角洲は橘洲と言・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・が、また葉巻の煙を吐きながら、静かにこう話を続けた。「お前は、――と云うよりもお前の年輩のものは、閣下をどう思っているね?」「別にどうも思ってはいません。まあ、偉い軍人でしょう。」 青年は老いた父の眼に、晩酌の酔を感じていた。・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・これにてらてらと小春の日の光を遮って、やや蔭になった頬骨のちっと出た、目の大きい、鼻の隆い、背のすっくりした、人品に威厳のある年齢三十ばかりなるが、引緊った口に葉巻を啣えたままで、今門を出て、刈取ったあとの蕎麦畠に面した。 この畠を前に・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・(麁葉――貰いものじゃあるが葉巻を出すと、目を見据えて、(贅沢またそういって、撃鉄をカチッと行る。 貰いものの葉巻を吹かすより、霰弾で鳥をばらす方が、よっぽど贅沢じゃないか、と思ったけれど、何しろ、木胴鉄胴からくり胴鳴って通る飛団子、と・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・まず、手始めに広告取次社から貰った芝居の切符をひそかにかくれてやったり、女の身で必要もない葉巻を無理にハンドバックの中へ入れてやったり、機嫌をとっていた。 それを察した相手が、安全なうちにと、暇をいただきたい旨言い出すと、お前は、「・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・マーク・トゥエーンは一日に四十本の葉巻を吸った。そのことに注目しているのである。が、これとても大したことはない。私は一日に百本の煙草を吸っている。多い日は百三十本吸ったこともある。その点では、マーク・トゥエーンには負けないつもりである。しか・・・ 織田作之助 「中毒」
出典:青空文庫