・・・いや、門の上の葉桜の枝さえきのう見た時の通りだった。が、新らしい標札には「櫛部寓」と書いてあった。僕はこの標札を眺めた時、ほんとうに僕の死んだことを感じた。けれども門をはいることは勿論、玄関から奥へはいることも全然不徳義とは感じなかった。・・・ 芥川竜之介 「死後」
・・・ 初夏の夕明りは軒先に垂れた葉桜の枝に漂っている。点々と桜の実をこぼした庭の砂地にも漂っている。保吉のセルの膝の上に載った一枚の十円札にも漂っている。彼はその夕明りの中にしみじみこの折目のついた十円札へ目を落した。鼠色の唐艸や十六菊の中・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・そこへ庭の葉桜の枝から毛虫が一匹転げ落ちました。毛虫は薄いトタン屋根の上にかすかな音を立てたと思うと、二三度体をうねらせたぎり、すぐにぐったり死んでしまいました。それは実に呆っ気ない死です。同時にまた実に世話の無い死です。――「フライ鍋・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・「……私が最初にあの女に会うたのは昨年の四月の末、覚王山の葉桜を見に行き、『寿』という料亭に上った時です。あの女はあそこの女中だったのです。その時女は、私は夫に死に別れ、叔母の所に預けてある九歳になる娘に養育費を送るために、こういう商売・・・ 織田作之助 「世相」
・・・されど空気は重く湿り、茂り合う葉桜の陰を忍びにかよう風の音は秋に異ならず、木立ちの夕闇は頭うなだれて影のごとく歩む人の類を心まつさまなり。ああこのごろ、年若き男の嘆息つきてこの木立ちを当てもなく行き来せしこと幾度ぞ。 水瀦に映る雲の色は・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
見るさえまばゆかった雲の峰は風に吹き崩されて夕方の空が青みわたると、真夏とはいいながらお日様の傾くに連れてさすがに凌ぎよくなる。やがて五日頃の月は葉桜の繁みから薄く光って見える、その下を蝙蝠が得たり顔にひらひらとかなたこな・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・酒の廻りしため面に紅色さしたるが、一体醜からぬ上年齢も葉桜の匂無くなりしというまでならねば、女振り十段も先刻より上りて婀娜ッぽいいい年増なり。「そう悪く取っちゃあいけねエ。そんなら実の事を云おうか、実はナ。「アアどうするッてエの。・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・ とみは、途方にくれた人のように窓外の葉桜をだまって眺めた。男爵も、それにならって、葉桜を眺めた。にが虫を噛みつぶしたような顔をしていた。とみは、ちょっと肩をすくめ、いまは観念したかおそろしく感動の無い口調で、さらさら言った。弟が、何か・・・ 太宰治 「花燭」
・・・頭を挙げて見ると、玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になっていて真青に茂り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。ひっそりしている。ああ、こんな小説が書きたい。こんな作品がいいのだ。なんの作意も無・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・、仏滅だと言ってしょげかえっているかと思うと、きょうは端午だ、やみまつり、などと私にはよく意味のわからぬようなことまでぶつぶつ呟いていたりする有様で、その日も、私が上野公園のれいの甘酒屋で、はらみ猫、葉桜、花吹雪、毛虫、そんな風物のかもし出・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
出典:青空文庫