・・・夕闇は潮のにおいと一しょに二人のまわりを立て罩めて、向う河岸の薪の山も、その下に繋いである苫船も、蒼茫たる一色に隠れながら、ただ竪川の水ばかりが、ちょうど大魚の腹のように、うす白くうねうねと光っています。新蔵はお敏の肩を抱いて、優しく唇を合・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・南は山影暗くさかしまに映り、北と東の平野は月光蒼茫としていずれか陸、いずれか水のけじめさえつかず、小舟は西のほうをさして進むのである。 西は入り江の口、水狭くして深く、陸迫りて高く、ここを港にいかりをおろす船は数こそ少ないが形は大きく大・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・そういう時は空と水が一緒にはならないけれども、空の明るさが海へ溶込むようになって、反射する気味が一つもないようになって来るから、水際が蒼茫と薄暗くて、ただ水際だということが分る位の話、それでも水の上は明るいものです。客はなんにも所在がないか・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは蒼茫たる暮烟につつまれて判然としていなかったのも、印象の深かった所以であろう。 或日わたくしは洲崎から木場を歩みつくして、十間川にかかった新しい橋をわたった。橋の欄には豊砂橋としてあっ・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・彼は美しいものには何ものにも直ちに心を開く自由な旅行者として、たとえば異郷の舗道、停車場の物売り場、肉饅頭、焙鶏、星影、蜜柑、車中の外国人、楡の疎林、平遠蒼茫たる地面、遠山、その陰の淡菫色、日を受けた面の淡薔薇色、というふうに、自分に与えら・・・ 和辻哲郎 「享楽人」
出典:青空文庫