・・・石垣の草には、蕗の薹も萌えていよう。特に桃の花を真先に挙げたのは、むかしこの一廓は桃の組といった組屋敷だった、と聞くからである。その樹の名木も、まだそっちこちに残っていて麗に咲いたのが……こう目に見えるようで、それがまたいかにも寂しい。・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 六 珊瑚樹垣の根には蕗の薹が無邪気に伸びて花を咲きかけている。外の小川にはところどころ隈取りを作って芹生が水の流れを狭めている。燕の夫婦が一つがい何か頻りと語らいつつ苗代の上を飛び廻っている。かぎろいの春の光、見・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・三時頃の薄い日影が庭半分にさしていて、梅の下には蕗の薹が丈高くのびて白い花が見えた。庭はまだ片づいていてそんなに汚くなかった。物置も何もなく、母家一軒の寂しい家であった。庭半分程這入って行くと、お松は母と二人で糸をかえしていて、自分達を認め・・・ 伊藤左千夫 「守の家」
・・・そして周囲のもの珍しさから、午後は耕太郎を伴れて散歩した。蕗の薹がそこらじゅうに出ていた。裏の崖から田圃に下りて鉄道線路を越えて、遠く川の辺まで寒い風に吹かれながら歩き廻った。そして蕗の薹や猫柳の枝など折ってきたりした。雪はほとんど消えてい・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・春になると蕨。蕗の薹。夏になると溪を鮎がのぼって来る。彼らはいちはやく水中眼鏡と鉤針を用意する。瀬や淵へ潜り込む。あがって来るときは口のなかへ一ぴき、手に一ぴき、針に一ぴき! そんな溪の水で冷え切った身体は岩間の温泉で温める。馬にさえ「馬の・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・路傍にはもう蕗の薹などが芽を出していました。あなたは歩きながら、山辺も野辺も春の霞、小川は囁き、桃の莟ゆるむ、という唱歌をうたって。 ゆるむじゃないわよ。桃の莟うるむ。潤むだったわ。 そうでしたか。やっぱり、あの頃の事を覚えていらっ・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・土庇の深く出た部屋で、その庭には槇と紫陽花と赤い絹糸の総をかけたような芽をふく楓が一株あった。蕗の薹も出た。その小部屋は、親たちのいるところと、夜は真暗な妙にくねった廊下でへだてられていた。父や母は壮年時代の旺盛な生活ぶりで、どちらかという・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・一吹風が渡るとたくさんなたくさんな松の葉が山のしんからそよぎ出すように、あの一種特別な音をたてて鳴りわたるのを聞きながら、蕗の薹のゾックリ出た草地に足を投げ出して、あたりを見はらすのが、六にとって何よりの楽しみなのである。「きれえだんな・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
出典:青空文庫