・・・観客から贔屓の芸人に贈る薬玉や花環をつくる造花師が入谷に住んでいた。この人も三月九日の夜に死んだ。初め女房や娘と共に大通りへ逃げたが家の焼けるまでにはまだ間があろうと、取残した荷物を一ツなりとも多く持出そうと立戻ったなり返って来なかったとい・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ そして、小さい声で、「何故薬玉さげて御おきゃはらないの」ってきいたんで、「あなたさげていらっしゃるの?」 私はあべこべにききかえした。「エ、母さんがやかましゅう云うてさげておきゃはるの、かおりをつめてなも」 御・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・ 人達は舞の手ぶり哥のよみぶりを批評しながらなごりおしげに桜の梢をふりかえりふりかえり女達は沢山かたまって薬玉のようになって細殿の暗い方に消えて行く、一番しんがりの一群の男のささきげんでつみもなく美くしい直衣の袖を胡蝶のように舞の引く手・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・天井から薬玉が下って畳に引くほど太いうちひもが色々な色に美くしく下って居る。どんな時に行っても白い小猫が緋縮緬の銀の鈴のついたくびわをはめてその時にじゃれて居る。赤い八二重の被のかかった鏡台の前には白粉の瓶、紅、はけ、こんなものがなつかしい・・・ 宮本百合子 「ひな勇はん」
出典:青空文庫