・・・随分おてんばさんで、二階の屋根づたいに隣の間へ、ばア――それよりか瓦の廂から、藤棚越しに下座敷を覗いた娘さんもあるけれど、あの欄干を跨いだのは、いつの昔、開業以来、はじめてですって。……この娘。……御当人、それで巌飛びに飛移って、その鯉をい・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・平家づくりで、数奇な亭構えで、筧の流れ、吹上げの清水、藤棚などを景色に、四つ五つ構えてあって、通いは庭下駄で、おも屋から、その方は、山の根に。座敷は川に向っているが、すぐ磧で、水は向う岸を、藍に、蒼に流れるのが、もの静かで、一層床しい。籬ほ・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・暗いほど茂った藤棚の下で、彼女は伜から話されたことを噛み反して見た。「まだお母さんはそんな夢を見てるんですか」 それはお三輪が念を押した時に、伜の言った言葉だ。彼女には、それほど世が移り変ったとは思われなかった。 蓮池はすぐ眼に・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・あなたは藤棚の下のベンチに横わり、いい顔をして、昼寝していました。私の名は、カメよカメよ、と申します。」 月日。「きょうは妙に心もとない手紙拝見。熱の出る心配があるのにビイルをのんだというのは君の手落ちではないかと考えます。君に・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・そうして、一日じゅうの大部分は藤棚の下の浅瀬で眠ったり泥の中をせせったりして暮らしている。夜になると下流の発電所への水の供給が増すせいであろう、池の水位が目に立つほど減って、浅瀬が露出した干潟になる。盆踊りを見ての帰りに池面のやみをすかして・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・少しおくれて、それまでは藤棚から干からびた何かの小動物の尻尾のように垂れていた花房が急に伸び開き簇生した莟が破れてあでやかな紫の雲を棚引かせる。そういう時によく武蔵野名物のから風が吹くことがあってせっかく咲きかけた藤の花を吹きちぎり、ついで・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・ 夕方藤棚の下で子供と涼んでいた。「おとうさん、ウム――と言っていると、あの蚊がみんなおりて寄ってくるのね」という。 自分の子供の時分、郷里ではそういう場合に「おらのおととのかむ――ん」という呪文を唱えて頭上に揺曳する蚊柱を呼びおろ・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・高い崖の上の家に藤棚らしいものが咲き乱れているのもあった。やがてロンバルディの平原へ出る。桑畑かと思うものがあり、また麦畑もあった。牧場のような所にはただ一面の緑草の中にところどころ群がって黄色い草花が咲いている。小川の岸には楊やポプラーが・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 夕方井戸水を汲んで頭を冷やして全身の汗を拭うと藤棚の下に初嵐の起るのを感じる。これは自分の最大のラキジュリーである。 夜は中庭の籐椅子に寝て星と雲の往来を眺めていると時々流星が飛ぶ。雲が急いだり、立止まったり、消えるかと思うとまた・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・右へ廻れば藤棚の下に「御子供衆への御土産一銭から御座ります」と声々に叫ぶ玩具売りの女の子。牡丹燈籠とかの活人形はその脇にあり。酒中花欠皿に開いて赤けれども買う人もなくて爺が煙管しきりに煙を吐く。蓄音機今音羽屋の弁天小僧にして向いの壮士腕をま・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
出典:青空文庫