・・・これは少しも虚礼ではない。彼は粟野さんの語学的天才に頗る敬意を抱いている。行年六十の粟野さんは羅甸語のシイザアを教えていた。今も勿論英吉利語を始め、いろいろの近代語に通じている。保吉はいつか粟野さんの Asino ――ではなかったかも知れな・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・代の人は大概現世祈祷を事とする堕落僧の言を無批判に頂戴し、将門が乱を起しても護摩を焚いて祈り伏せるつもりでいた位であるし、感情の絃は蜘蛛の糸ほどに細くなっていたので、あらゆる妄信にへばりついて、そして虚礼と文飾と淫乱とに辛くも活きていたので・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・これは虚礼の辞ではない。十年前であったなら、さほどまでにうれしいとは思わなかったかも知れない。しかし今は時勢に鑑みまた自分の衰老を省みて、今なおわたくしの旧著を精読して批判の労を厭わない人があるかと思えば満腔唯感謝の情を覚ゆるばかりである。・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
ケーベル先生は今日日本を去るはずになっている。しかし先生はもう二、三日まえから東京にはいないだろう。先生は虚儀虚礼をきらう念の強い人である。二十年前大学の招聘に応じてドイツを立つ時にも、先生の気性を知っている友人は一人も停・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生の告別」
・・・此辺より見れば女大学は人に無理を責めて却て人をして偽を行わしめ、虚飾虚礼以て家族団欒の実を破るものと言うも不可なきが如し。我輩の所見を以てすれば、家内の交には一切人為の虚を構えずして天然の真に従わんことを欲するものなり。嫁の身を以て見れば舅・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・い落差ます/\はげしく一樹なく人工の浪漫なくおもむきなく世の規定を知らずとび落ちようおのが飛沫の中にかゞやき落ちようおゝ詩はやわらかい言葉のためにあるのではないわがうたは社交と虚礼のために奏でざれあかつきの大気を・・・ 宮本百合子 「『静かなる愛』と『諸国の天女』」
・・・ならば、それも少々持合せ候とて、はじめて御取り出しなされし由、御当家におかせられては、代々武道の御心掛深くおわしまし、かたがた歌道茶事までも堪能に渡らせらるるが、天下に比類なき所ならずや、茶儀は無用の虚礼なりと申さば、国家の大礼、先祖の祭祀・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・器ならばそれも少々持合せ候とて、はじめて御取り出しなされし由、御当家におかせられては、代々武道の御心掛深くおわしまし、かたがた歌道茶事までも堪能に渡らせらるるが、天下に比類なき所ならずや、茶儀は無用の虚礼なりと申さば、国家の大礼、先祖の祭祀・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・たとえ世間が普通の事と認めていようとも、とにかく虚偽や虚礼である以上は、先生はひどくそれをきらった。先生の重んずるのはただ道徳的心情である。形式習慣にむやみと反抗するのではなく、ただ道徳的心情よりいでてのみ動こうとしたのである。これを奇行と・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
・・・愛なき孝は冷たき虚礼に過ぎぬ。人格の共鳴なき信は水の面の字である。犠牲心なき忠は偽善である。 現代の道徳は霊的根底を超越して偽善を奨励す。冷ややけき顔に自ら「理性の権化」と銘する人はこの偽善を社会に強い、この虚礼をもって人生を清くせんと・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫