・・・ で、何の事はない、虫眼鏡で赤蟻の行列を山へ投懸けて視めるようだ。それが一ツも鳴かず、静まり返って、さっさっさっと動く、熊笹がざわつくばかりだ。 夢だろう、夢でなくって。夢だと思って、源助、まあ、聞け。……実は夢じゃないんだが、現在・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・両親の居間の襖をするするあけて、敷居のうえに佇立すると、虫眼鏡で新聞の政治面を低く音読している父も、そのかたわらで裁縫をしている母も、顔つきを変えて立ちあがる。ときに依っては、母はひいという絹布を引き裂くような叫びをあげる。しばらく私のすが・・・ 太宰治 「玩具」
・・・大きいのでせいぜい二、三分四方、小さいのは虫眼鏡ででも見なければならないような色紙の片が漉き込まれているのである。それがただ一様な色紙ではなくて、よく見るとその上には色々の規則正しい模様や縞や点線が現われている。よくよく見ているとその中のあ・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・人殺しの罪人でさえも官費で弁護士がつけられる世の中に、効はあっても罪のない論文提出者は八方から虫眼鏡で瑕を捜され叱責されることになるのである。たとえ明白な誤謬は一つもない論文であっても、一人の人間が限りある時間に仕遂げた仕事であってみれば、・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・何なら虫眼鏡で一遍ずつ覗かせるのもいいかもしれない。ついでにもう一歩を進めるならば、電車の切符について起り得る錯誤のあらゆる場合を調査しておくのもいいかと思う。不正な動機から起るものの外に、どれだけ色々の場合があるかを研究し列挙して車掌達の・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・美術批評家でも何でもない自分等は、そういう第一印象を無視して無理に職務的に理論的に一つ一つの絵の鑑賞点を虫眼鏡で掘り出す気にはどうにもなれないのである。 横山大観氏の絵だけには、いつでも何かしら人を引きつける多少の内容といったようなもの・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
・・・此方ではツァイスの顕微鏡を要求しているのに露店で売っている虫眼鏡をよこして「見える」「見える」と云って主張するようなものである。 とにかくアンテナを拡張し、完全なアースをすれば聞こえるであろうと思われたが、それがおっくうであるのと、もう・・・ 寺田寅彦 「ラジオ雑感」
・・・九段の遊就館を石で造って二三十並べてそうしてそれを虫眼鏡で覗いたらあるいはこの「塔」に似たものは出来上りはしまいかと考えた。余はまだ眺めている。セピヤ色の水分をもって飽和したる空気の中にぼんやり立って眺めている。二十世紀の倫敦がわが心の裏か・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・平べったい金時計、その片方の先にナイフがついている、虫眼鏡の度のちがうのがいくつも重って出て来るようになっているもの。紙入、そして一冊の平凡な手帳。ハンカチーフ其他――。 この手帳こそ、父の生涯を通じての動く書斎であり、秘書のようなもの・・・ 宮本百合子 「父の手帳」
出典:青空文庫