・・・兵衛は蚯蚓腫になった腕を撫でながら、悄々綱利の前を退いた。 それから三四日経ったある雨の夜、加納平太郎と云う同家中の侍が、西岸寺の塀外で暗打ちに遇った。平太郎は知行二百石の側役で、算筆に達した老人であったが、平生の行状から推して見ても、・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・とんと、縁の下で蚯蚓でも鳴いているような心もちで――すると、その声が、いつの間にやら人間の語になって、『ここから帰る路で、そなたに云いよる男がある。その男の云う事を聞くがよい。』と、こう聞えると申すのでございますな。「はっと思って、眼が・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・中の女の顔を蚯蚓腫れだらけにしたと言うことです。 半之丞の豪奢を極めたのは精々一月か半月だったでしょう。何しろ背広は着て歩いていても、靴の出来上って来た時にはもうその代も払えなかったそうです。下の話もほんとうかどうか、それはわたしには保・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・そこには青い剃痕の中に、大きな蚯蚓脹が出来ていた。「これか? これは嚊に引っ掻かれたのさ。」 牧野は冗談かと思うほど、顔色も声もけろりとしていた。「まあ、嫌な御新造だ。どうしてまたそんな事をしたんです?」「どうしてもこうして・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・あらこんなに眼の下を蚯蚓ばれにして兄さん、御免なさいと仰有いまし。仰有らないとお母さんにいいつけますよ。さ」 誰が八っちゃんなんかに御免なさいするもんか。始めっていえば八っちゃんが悪いんだ。僕は黙ったままで婆やを睨みつけてやった。 ・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・来た処も、行く道も、露草は胡麻のように乾び、蓼の紅は蚯蚓が爛れたかと疑われる。 人の往来はバッタリない。 大空には、あたかもこの海の沖を通って、有磯海から親不知の浜を、五智の如来へ詣ずるという、泳ぐのに半身を波の上に顕して、列を造っ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ と、虫の声で、青蚯蚓のような舌をぺろりと出した。怪しい小男は、段を昇切った古杉の幹から、青い嘴ばかりを出して、麓を瞰下しながら、あけびを裂いたような口を開けて、またニタリと笑った。 その杉を、右の方へ、山道が樹がくれに続いて、木の・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・いまにも胴中から裂けそうで、串戯どころか、その時は、合掌に胸を緊めて、真蒼になって、日盛の蚯蚓でのびた。叔父の鉄枴ヶ峰ではない。身延山の石段の真中で目を瞑ろうとしたのである。 上へも、下へも、身動きが出来ない。一滴の露、水がなかった。・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・これが看板で、小屋の正面に、鼠の嫁入に担ぎそうな小さな駕籠の中に、くたりとなって、ふんふんと鼻息を荒くするごとに、その出額に蚯蚓のような横筋を畝らせながら、きょろきょろと、込合う群集を視めて控える……口上言がその出番に、「太夫いの、太夫・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・停車場前で饂飩で飲んだ、臓府がさながら蚯蚓のような、しッこしのない江戸児擬が、どうして腹なんぞ立て得るものかい。ふん、だらしやない。他の小児はきょろきょろ見ている。小児三 何だか知らないけれどね、今、向うから来る兄さんに、糸・・・ 泉鏡花 「紅玉」
出典:青空文庫