・・・けれども保吉の内生命には、――彼の芸術的情熱には畢に路傍の行人である。その路傍の行人のために自己発展の機会を失うのは、――畜生、この論理は危険である! 保吉は突然身震いをしながら、クッションの上に身を起した。今もまたトンネルを通り抜けた・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。 人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろ・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・「夏目さんの『行人』の中に和歌の浦へ行った男と女とがとうとう飯を食う気にならずに膳を下げさせるところがあるでしょう。あすこを牢の中で読んだ時にはしみじみもったいないと思いましたよ」 彼は人懐い笑顔をしながら、そんなことも話していった・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・と呼び立つれど、土塀石垣寂として、前後十町に行人絶えたり。 八田巡査は、声をはげまし、「放さんか!」 決然として振り払えば、力かなわで手を放てる、咄嵯に巡査は一躍して、棄つるがごとく身を投ぜり。お香はハッと絶え入りぬ。あわれ八田・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・今なら女優というような眩しい粉黛を凝らした島田夫人の美装は行人の眼を集中し、番町女王としての艶名は隠れなかった。良人沼南と同伴でない時はイツデモ小間使をお伴につれていたが、その頃流行した前髪を切って前額に垂らした束髪で、嬌態を作って桃色の小・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・このエキゾチックな貴族臭い雰囲気に浸りながら霞ガ関を下りると、その頃練兵場であった日比谷の原を隔てて鹿鳴館の白い壁からオーケストラの美くしい旋律が行人を誘って文明の微醺を与えた。今なら文部省に睨まれ教育界から顰蹙される頗る放胆な自由恋愛説が・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・たとえば君が住まわれた渋谷の道玄坂の近傍、目黒の行人坂、また君と僕と散歩したことの多い早稲田の鬼子母神あたりの町、新宿、白金…… また武蔵野の味を知るにはその野から富士山、秩父山脈国府台等を眺めた考えのみでなく、またその中央に包まれてい・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・振袖火事として知られた明暦の大火は言うまでもなく、明和九年二月二十九日の午ごろ目黒行人坂大円寺から起こった火事はおりからの南西風に乗じて芝桜田から今の丸の内を焼いて神田下谷浅草と焼けつづけ、とうとう千住までも焼け抜けて、なおその火の支流は本・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・恐る恐る高き台を見上げたる行人は耳を掩うて走る。 シャロットの女の織るは不断のはたである。草むらの萌草の厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散る浪の・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・例えば夏目漱石の小説ですが、その主人公は、インテリゲンチアですが、本当の親でない親をもった青年が、いろいろな苦しみの中にもだえているし、「行人」のように自分を愛するのか愛さないのかわからない、ちっとも積極的な感情表現をしない妻をもったインテ・・・ 宮本百合子 「社会と人間の成長」
出典:青空文庫