・・・ 高い声では謂われぬことだが、お金子の行先はちゃんと分った。しかし手証を見ぬことだから、膝下へ呼び出して、長煙草で打擲いて、吐させる数ではなし、もともと念晴しだけのこと、縄着は邸内から出すまいという奥様の思召し、また爺さんの方でも、神業・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・右は畑、左は堤の上を一列に老松並ぶ真直の道をなかば来たりし時、行先をゆくものあり。急ぎて燈火さし向くるに後姿紀州にまぎれなし。彼は両手を懐にし、身を前に屈めて歩めり。「紀州ならずや」呼びかけてその肩に手を掛けつ、「独りいずこに行かん・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・おげんは弟が自分のために心配して家を出て行ったことを感づいたが、弟の行先が気になった。ずっと以前に一度、根岸の精神病院に入れられた時の厭わしい記憶がおげんの胸に浮んだ。旦那も国から一緒に出て来た時だった。その時にも彼女の方では、どうしてもそ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・昭和九年九月二十九日の早朝新宿駅中央線プラットフォームへ行って汽車を待っていると、湿っぽい朝風が薄い霧を含んでうそ寒く、行先の天気が気遣われたが、塩尻まで来るととうとう小雨になった。松本から島々までの電車でも時々降るかと思うとまた霽れたりし・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ところが最近のある晩TS君がやはり丸ビル附近でそれと全く同じような経験をした、と云って話したところによると、やはり同じような子供を背負っていたが、しかしその徒歩での行先は亀井戸ではなくて吉原の裏の方だと云ったそうである。TS君のその話を聞い・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・余所の蒲団の行先は分からない。 この角の向側に牛肉屋の豊国がある。学生の頃の最大のラキジュリーは豊国の牛鍋であった。色々の集会もここであった。天文関係の人が寄ったときにその頃発見された新星ノヴァ・ペルセイの話が出た。新星と豊国がその時か・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・ 午後も三時過ぎてから、ふらりと郊外へ散歩に出る。行先さだめず歩みつづけて、いつか名も知らず方角もわからぬ町のはずれや、寂しい川のほとりで日が暮れる。遠くにちらつく燈火を目当に夜道を歩み、空腹に堪えかねて、見あたり次第、酒売る家に入り、・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・わたくしは初め行先を聞かれて、賃銭を払う時、玉の井の一番賑な処でおろしてくれるように、人前を憚らず頼んで置いたのである。 車から降りて、わたくしはあたりを見廻した。道は同じようにうねうねしていて、行先はわからない。やはり食料品、雑貨店な・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ 何処へ行こうかと避暑の行先を思案している中、土用半には早くも秋風が立ち初める。蚊遣の烟になお更薄暗く思われる有明の灯影に、打水の乾かぬ小庭を眺め、隣の二階の三味線を簾越しに聴く心持……東京という町の生活を最も美しくさせるものは夏であろ・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・わたくしは行先の当てもなく漫然散策していた途上であった。二君はこの日午前より劇場に在って演劇の稽古の思いの外早く終ったところから、相携えてこの店に立寄られたのだと云う。店の主人は既にわたくしとは相識の間である。偶然の会合に興を得て店頭の言談・・・ 永井荷風 「百花園」
出典:青空文庫