・・・ 井侯が陛下の行幸を鳥居坂の私邸に仰いで団十郎一座の劇を御覧に供したのは劇を賤視する従来の陋見を破って千万言の論文よりも芸術の位置を高める数倍の効果があった。井侯の薨去当時、井侯の逸聞が伝えられるに方って、文壇の或る新人は井侯が団十郎を・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ 明治五年申五月六日 京都三条御幸町の旅宿松屋にて福沢諭吉記 福沢諭吉 「京都学校の記」
・・・慶応四年春、浪華に行幸あるに吾宰相君御供仕たまへる御とも仕まつりに、上月景光主のめされてはるばるのぼりけるうまのはなむけに天皇の御さきつかへてたづがねののどかにすらん難波津に行すめらぎの稀の行幸御供する君のさ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ 二十日ほど御幸ヶ浜の養生館に居ます。 書架が開いてますから留守へも行ってやって下さい、 女中が淋しがってましょうから。」 一枚の葉書に二人の名宛を書いた。 万年筆の少し震えた字を見なおそうともしないで、東京でこの葉書を・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
・・・ これより二年目、寛永三年九月六日主上二条の御城へ行幸遊ばされ妙解院殿へかの名香を御所望有之すなわちこれを献ぜらるる、主上叡感有りて「たぐひありと誰かはいはむ末にほふ秋より後のしら菊の花」と申す古歌の心にて、白菊と名附けさせ給由承り候。・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・ これより二年目、寛永三年九月六日主上二条の御城へ行幸遊ばされ、妙解院殿へかの名香を御所望有之、すなわちこれを献ぜらる、主上叡感有りて、「たぐひありと誰かはいはむ末にほふ秋より後のしら菊の花」と申す古歌の心にて、白菊と名づけさせ給う由承・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・しからばあとに残されたのは、皇居離宮などのまわりをうろつくか、または行幸啓のときに路傍に立つことのみである。それは平時二重橋前に集まり、また行幸啓のとき路傍に立っている人々の行為と、なんら異なったものでない。それは我々の経験によれば、警衛で・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫