・・・それがまた幸いと、即座に話がまとまって、表向きの仲人を拵えるが早いか、その秋の中に婚礼も滞りなくすんでしまったのです。ですから夫婦仲の好かった事は、元より云うまでもないでしょうが、殊に私が可笑しいと同時に妬ましいような気がしたのは、あれほど・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・場合によれば、表向き、治兵衛をここへ呼んで逢わせるも可かろう。あの盲いた人、あの、いたいけな児、鬼も見れば角がなごむ。――心配はあるまいものの、また間違がないとも限らぬ。その後難の憂慮のないように、治兵衛の気を萎し、心を鎮めさせるのに何より・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・……いいえ、お上人よりか、檀家の有志、県の観光会の表向きの仕事なんです。お寺は地所を貸すんです。」「葬った土とは別なんだね。」「ええ、それで、糸塚、糸巻塚、どっちにしようかっていってるところ。」「どっちにしろ、友禅のに対するなん・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・』『いやじゃないが、今すぐと言うたところで叔母が承知するかせんかわからんじゃないか』『叔母さんがなんといおうとあなたがその気ならなんでもない、あなたさえウンと言えば私が明日にでも表向きの夫婦にして見せます。なにもここばかりが世界じゃ・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・もっともこれは創作の低気圧のためであったけれども、来客謝絶は表向き双方同じ事なんだから、この看板を引き下ろさせるだけの縁故も親しみもない両人は、それきり面談をする機会がなかった。 ところがある日の午後湯に行った。着物を脱いで、流しへ這入・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・人民に対して行使する表向きの暴力はもっていないという建前になっている。連合国は、日本人民の平和裏の自主性を認めているのである。地方にも都会にも様々の形で各機構に入りこんでいる右翼くずれ、特高の変形は、人民の統一行動を攪乱するのが唯一の任務で・・・ 宮本百合子 「人民戦線への一歩」
・・・玩具なんか軽蔑していたが、それは表向きで、玩具をもっているものを見ればやっぱり羨しかった。こんなひとかどの人間になったようにしているサーシャが玩具を持っているということは非常に嬉しかった。彼が恥しがっているとして、その極りわるさは、やさしい・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・奥まった所には別席を設けて、表向きの出座ではないが、城代が取り調べの模様をよそながら見に来ている。縁側には取り調べを命ぜられた与力が、書役を従えて着座する。 同心らが三道具を突き立てて、いかめしく警固している庭に、拷問に用いる、あらゆる・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・所詮町奉行の白州で、表向きの口供を聞いたり、役所の机の上で、口書を読んだりする役人の夢にもうかがうことのできぬ境遇である。 同心を勤める人にも、いろいろの性質があるから、この時ただうるさいと思って、耳をおおいたく思う冷淡な同心があるかと・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・ 幕府滅亡の余波で、江戸の騒がしかった年に、仲平は七十で表向き隠居した。まもなく海嶽楼は類焼したので、しばらく藩の上邸や下邸に入っていて、市中の騒がしい最中に、王子在領家村の農高橋善兵衛が弟政吉の家にひそんだ。須磨子は三年前に飫肥へ・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫