・・・家康は古千屋の狂乱の中にもいつか人生の彼に教えた、何ごとにも表裏のあるという事実を感じない訣には行かなかった。この推測は今度も七十歳を越した彼の経験に合していた。……「さもあろう。」「あの女はいかがいたしましょう?」「善いわ、や・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・二葉亭の言分を聞けば一々モットモで、大抵の場合は小競合いの敵手の方に非分があったが、実は何でもない日常の些事をも一々解剖分析して前後表裏から考えて見なければ気が済まない二葉亭の性格が原因していた。一と口にいえば二葉亭は家庭の主人公としては人・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・その感情に表裏がなく、一たび恩を感ずれば、到底人間の及ばぬ忍耐と忠実とを示して来たのであります。そこには、ただ本能としてのみ看過されないものがある。これに比して人間は、ただ利害によって彼等を裏切ることをなんとも思っていない。それは、自己防衛・・・ 小川未明 「天を怖れよ」
・・・ も一ツ古い談をしようか、これは明末の人の雑筆に出ているので、その大分に複雑で、そしてその談中に出て来る骨董好きの人や骨董屋の種の性格風ふうぼうがおのずと現われて、かつまた高貴の品物に搦む愛着や慾念の表裏が如何様に深刻で険危なものであるとい・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・ 自ら責めるよりほかは無かったが、自ら責めるばかりで済むことでは無い、という思が直に※深く考え居りてか、差当りて何と為ん様子も無きに、右膳は愈々勝に乗り、「故管領殿河内の御陣にて、表裏異心のともがらの奸計に陥入り、俄に寄する数万の敵・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・の歴史を見ると、昔は理想から出立した教育が、今は事実から出発する教育に変化しつつあるのであります、事実から出発する方は、理想はあるけれども実行は出来ぬ、概念的の精神に依って人は成立する者でない、人間は表裏のあるものであるとして、社会も己も教・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・だんだん聞いて見ると、一方は浪の非常に荒い時に行き、一方は非常に静かな時に行った違から話がこう表裏して来たのである。固より見た通なんだから両方とも嘘ではない。がまた両方とも本当でもない。これに似寄りの定義は、あっても役に立たぬことはない。が・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・彼らの自由と表裏して発達して来た深い根柢をもった思想に違ないのです。 彼らは不平があるとよく示威運動をやります。しかし政府はけっして干渉がましい事をしません。黙って放っておくのです。その代り示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、むやみ・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・もしもこの限界を越ゆるときは、徳教の趣を変じて輿論に適合し、その意味を表裏・陰陽に解して、あたかも輿論に差支なきの姿を装い、もってその体をまっとうするの実を見るべし。蛮夷、夏を乱だるは聖人の憂うるところなれども、その聖人国を蛮夷に奪われたる・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・すなわち国を立てまた政府を設る所以にして、すでに一国の名を成すときは人民はますますこれに固着して自他の分を明にし、他国他政府に対しては恰も痛痒相感ぜざるがごとくなるのみならず、陰陽表裏共に自家の利益栄誉を主張してほとんど至らざるところなく、・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
出典:青空文庫