・・・しかし予は衷心不憫にたえないのであった。ふたりの子どもはこくりこくり居眠りをしてる。お光さんもさすがに心を取り直して、「まァかわいらしいこと、やっぱりこんなかわいい子の親はしあわせですわ」「よいあんばに小雨になった、さァ出掛けましょ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・が、自分のような鈍感者では到底味う事の出来ない文章上の微妙な説を聞いて大いに発明した事もしばしばあったし、洗練推敲肉痩せるまでも反覆塗竄何十遍するも決して飽きなかった大苦辛を見て衷心嘆服せずにはいられなかった。歿後遺文を整理して偶然初度の原・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・世の巷に駆けめぐる人は目のみを鋭く働かしめて耳を用いざるものなり。衷心騒がしき時いかで外界の物音を聞き得ん。 青年の心には深き悲しみありて霧のごとくかかれり、そは静かにして重き冷霧なり。かれは木の葉一つ落ちし音にも耳傾け、林を隔てて遠く・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・青年に、永遠の真理の把握と人間完成とを志向せしめようと祈願するとき、彼らがいずれはその理性知を揚棄せねばならぬことを注意せざるを得ず、またその読者の選択を合理的知性に対応する方向のみに向けしむることは衷心からの不安を感じる。 彼らに祖国・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・その諦めもほんの上っ面のもので、衷心に存する不平や疑惑を拭い去る力のあるものではない。しかたがないからという諦めである。三 ここまで回顧して来て、いつも思い悩むのはその奥である。何が自分をして諦めさせるのだろう。私に取っては・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ 私がこれから物語ろうと思ういきさつの男女も、このような微笑の初夜を得るように、私は衷心から祈っている。 東京の郊外に男爵と呼ばれる男がいた。としのころ三十二、三と見受けられるが、或いは、もっと若いのかも知れない。帝大の経済科を中途・・・ 太宰治 「花燭」
・・・我らの衷心が然囁くのだ。しかしながらその愉快は必ずや我らが汗もて血もて涙をもて贖わねばならぬ。収穫は短く、準備は長い。ゾラの小説にある、無政府主義者が鉱山のシャフトの排水樋を夜窃に鋸でゴシゴシ切っておく、水がドンドン坑内に溢れ入って、立坑と・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・それも他人の犬であったらそういう念慮も起らなかったであろうが、衷心非常な苦悩を有して居れば居る程太十の態度が可笑しいので罪のない悪い料簡がどうかすると人々の心に萠すのであった。「殺しちまあ」 太十がいった其声は顫えて居た。犬の身に起・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 女性の過去が如何に人として貧弱な社会的生活を営んでいたか、そして、現在の社会状態と自分の衷心に遺っているらしい昔の羈絆を顧みた時、それが根本の原因と成って、女性の芸術には種々の傾向が現われて来るように思われる。 或る人々は、所謂「・・・ 宮本百合子 「概念と心其もの」
・・・ そのような感情をもって観ていると、人のよい農夫は、自分の農夫であることや、無智であることを自覚し、学生に対して常にひかえ目であるのだが、どうしても衷心からの動きを制しかねた風で半ば独言のように云った。「それでもはあ、民衆一体の仕合わせ・・・ 宮本百合子 「北へ行く」
出典:青空文庫