・・・ 教育のある婦人にあらねど、ものの本など好みて読めば、文書く術も拙からで、はた裁縫の業に長けたり。 他の遊芸は知らずと謂う、三味線はその好きの道にて、時ありては爪弾の、忍ぶ恋路の音を立つれど、夫は学校の教授たる、職務上の遠慮ありとて・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・「お前は手習よか裁縫です。着物が満足に縫えなくては女一人前として嫁にゆかれません」 この頃僕に一点の邪念が無かったは勿論であれど、民子の方にも、いやな考えなどは少しも無かったに相違ない。しかし母がよく小言を云うにも拘らず、民子はなお・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・彦少名命を祀るともいうし、神功皇后と応神天皇とを合祀するともいうし、あるいは女体であるともいうが、左に右く紀州の加太の淡島神社の分祠で、裁縫その他の女芸一切、女の病を加護する神さまには違いない。だが、この寺内の淡島堂は神仏混交の遺物であって・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 親子は裁縫の師匠をしているので、つい先方弟子の娘たちが帰った後の、断布片や糸屑がまだ座敷に散らかっているのを手早く片寄せて、ともかくもと蓐に請ずる。請ぜられるままお光は座に就いて、お互いに挨拶も済むと、娘は茶の支度にと引っ込む。「・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 家内が珍らしくも寂然としているので細川は少し不審に思いつつ坐敷に通ると、先生の居間の次ぎの間に梅子が一人裁縫をしていた。細川が入って来ても頭を上げないので、愈々訝かしく能く見ると蒼ざめた頬に涙が流れているのが洋燈の光にありありと解る。・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・りだし、又た結局あの人も暫時は辛い目に遇て生育つのですから今時分から他人の間に出るのも宜かろうと思って、心を鬼にして出してやりました、辛抱が出来ればいいがと思って、……それ源ちゃんは斯様だし、今も彼の裁縫しながら色々なことを思うと悲しくなっ・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・そして、好きな裁縫や編み物のような、静かな手芸に飽きることを知らないような娘であった。そろそろ女の洋服がはやって来て、女学校通いの娘たちが靴だ帽子だと新規な風俗をめずらしがるころには、末子も紺地の上着に襟のところだけ紫の刺繍のしてある質素な・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・病院にいらっしゃる間は、よくお裁縫なぞもなさいましたっけ」 と親戚のものに話しきかせた。 長いこと遠いところに行っていたおげんの一番目の弟の宗太も、その頃は東京で、これもお玉の旦那と二人で急いで来たが、先着の親戚と一緒になる頃はやが・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・末子は、と見ると、これもすでに学校の第三学年を終わりかけて、日ごろ好きな裁縫や手芸なぞに残る一学年の生い先を競おうとしていた。この四人の兄妹に、どう金を分けたものかということになると、私はその分け方に迷った。 月の三十日までには約束・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・両親の居間の襖をするするあけて、敷居のうえに佇立すると、虫眼鏡で新聞の政治面を低く音読している父も、そのかたわらで裁縫をしている母も、顔つきを変えて立ちあがる。ときに依っては、母はひいという絹布を引き裂くような叫びをあげる。しばらく私のすが・・・ 太宰治 「玩具」
出典:青空文庫