・・・ 満員の電車から終点へ下された人びとは皆働人の装いで、労働者が多かった。夕刊売りや鯉売りが暗い火を点している省線の陸橋を通り、反射燈の強い光のなかを黙々と坂を下りてゆく。どの肩もどの肩もがっしり何かを背負っているようだ。行一はいつもそう・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・あるいは、とばかり疑いしが、色にも見せずあくまで快げに装いぬ。傲然として鼻の先にあしらうごとき綱雄の仕打ちには、幾たびか心を傷つけられながらも、人慣れたる身はさりげなく打ち笑えど、綱雄はさらに取り合う気色もなく、光代、お前に買って来た土産が・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・表裏異心のともがらの奸計に陥入り、俄に寄する数万の敵、味方は総州征伐のためのみの出先の小勢、ほかに援兵無ければ、先ず公方をば筒井へ落しまいらせ、十三歳の若君尚慶殿ともあるものを、卑しき桂の遊女の風情に粧いて、平の三郎御供申し、大和の奥郡へ落・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ 自分が魚餌を鉤に装いつけた時であった。偶然に少年は自分の方に面を向けた。そして紅桃色をしたイトメという虫を五匹や六匹ではなく沢山に鉤に装うところを看詰めていた。その顔はただ注意したというほかに何の表情があるのではなかった。しかし思いの・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・と殊勝らしく、眼を伏せて、おそろしく自己を高尚に装い切ったと信じ込んで、澄ましている風景のなかなかに多く見受けられることである。あさましく、かえって鴎外のほうでまごついて、赤面するにちがいない。勉強いたして居ります。というのは商人の使う言葉・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・けれども、かれは豪放磊落を装い、かまわんかまわんと言って背広服で料理屋に乗込んだものの、玄関でも、また廊下でも、逢うひと逢うひと、ことごとく礼服である。さすがに大隅君も心細くなった様子で、おい、この家でモオニングか何か貸してくれないものかね・・・ 太宰治 「佳日」
・・・ろくな仕事もしていない癖に、その生活に於いて孤高を装い、卑屈に拗ねて安易に絶望と虚無を口にして、ひたすら魅力ある風格を衒い、ひとを笑わせ自分もでれでれ甘えて恐悦がっているような詩人を、自分は、底知れぬほど軽蔑しています。卑怯であると思う。横・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・きょうありて明日、炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装い給えば、まして汝らをや。汝ら、之よりも遥かに優るる者ならずや。というキリストの慰めが、私に、「ポオズでなく」生きる力を与えてくれたことが、あったのだ。けれども、いまは、どうにも、て・・・ 太宰治 「鴎」
・・・川端康成の、さりげなさそうに装って、装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ。こんな筈ではなかった。たしかに、こんな筈ではなかったのだ。あなたは、作家というものは「間抜け」の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなけ・・・ 太宰治 「川端康成へ」
・・・浴場へ行って清澄な温泉に全身を浸し、連日の疲れを休めていると、どやどやと一度に五、六人の若い女がはいって来て、そこに居たわれわれ男性の存在には没交渉に、その華やかな衣裳を脱いで、イヴ以来の装いのままで順次に同じ浴槽の中に入り込んで来た。霊山・・・ 寺田寅彦 「二つの正月」
出典:青空文庫