・・・暗褐色のぬらりとしたものが、わずかに見えた。たしかだ。淀江村だ。いま見えたのは幅三尺の頭の一部にちがいない。私は窒息せんばかりに興奮した。見世物小屋から飛び出して、寒風に吹きまくられ、よろめきながら湯村の村はずれの郵便局にたどりつく。肩で烈・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・また配給の三合の焼酎に、薬缶一ぱいの番茶を加え、その褐色の液を小さいグラスに注いで飲んで、このウイスキイには茶柱が立っている、愉快だ、などと虚栄の負け惜しみを言って、豪放に笑ってみせるが、傍の女房はニコリともしないので、いっそうみじめな風景・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・傍へ来たのを見れば、褐色の八字髭が少しあるのを、上に向けてねじってある。今初めて見る顔である。 その男がこう云った。「へん、気に食わない奴だ。大沼なんぞは馬鹿だけれども剛直な奴で、重りがあった。」 こう言いながら、火鉢を少し持ち・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・「背景は例の暗褐色。豊かな金髪をちぢらせてふさふさと額に垂らしている。伏目につつましく控えている碧い神経質な鋭い目も、官能的な桜桃色の唇も相当なものである。肌理の細かい女のような皮膚の下から綺麗な血の色が、薔薇色に透いて見える。黒褐色の服に・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・それが優しい、褐色の、余り大きいとさえ云いたいような、余りきらきらする潤いが有り過ぎるような目の中から耀いて見える。 無邪気な事は小児のようである。軽はずみの中にさえ、子供めいた、人の好げな処がある。物を遣れば喜ぶ。装飾品が大好きである・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 褐色の道路――砲車の轍や靴の跡や草鞋の跡が深く印したままに石のように乾いて固くなった路が前に長く通じている。こういう満州の道路にはかれはほとんど愛想をつかしてしまった。どこまで行ったらこの路はなくなるのか。どこまで行ったらこんな路は歩・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・肉眼で見る代わりに低度の虫めがねでのぞいて見ると、中央に褐色を帯びた猪口のようなものが見える。それがどうもおしべらしい。その杯状のものの横腹から横向きに、すなわち茎と直角の方向に飛び出している浅緑色の袋のようなものがおしべの子房であるらしく・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・その上端の方が著しく濃い褐色に染まっている。その色が濃くなるとじきに孵化するのだとキャディがいう。早くかえらないと、万一誰かの右傾した球が落ちかかって来れば、この可愛い五つ生命の卵子は同時につぶされそうである。巣は小さな笊のような形をしてい・・・ 寺田寅彦 「ゴルフ随行記」
・・・すすけた黄褐色の千切り形あるいは分銅形をしたものの、両端にぼんやり青みがかった雲のようなものが見える。ニコルを回転すると、それにつれて、この斑点もぐるぐる回る。自分も学生時代にこれに関する記事を読んでさっそく実験してみたが、なかなか見えない・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・おどろな灰褐色の髪の下に真黒な小粒な顔がのぞいている。色があまりに黒いのと距離が遠いのとで、顔の表情などは遺憾ながら分らない。片手に何か短い棒のようなものを固く握っているが、これも何であるか分らなかった。しかし私にはそれはどうでもよい。面白・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫