・・・男は入口にうずくまるフランシスに眼をつけると、きっとクララの方に鋭い眸を向けたが、フランシスの襟元を掴んで引きおこした。ぞろぞろと華やかな着物だけが宙につるし上って、肝腎のフランシスは溶けたのか消えたのか、影も形もなくなっていた。クララは恐・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 猫は吉田の枕のところへやって来るといつものように夜着の襟元から寝床のなかへもぐり込もうとした。吉田は猫の鼻が冷たくてその毛皮が戸外の霜で濡れているのをその頬で感じた。すなわち吉田は首を動かしてその夜着の隙間を塞いだ。すると猫は大胆にも・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ふくらんでいる小さい手で襟元を直してから微笑んだ。「木下がいけないのですの。こんどの大家さんは、わかくて善良らしいとか、そんな失礼なことを言いまして、あの、むりにあんなおかしげな切手を作らせましたのでございますの。ほんとうに。」「そうで・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・おしゃれの様子で、襟元をやたらに気にして直しながら、「佐伯君、少し乱暴じゃありませんか。」と真面目な口調で言って、「僕は、親にさえ、こういう醜い顔を見せた事はないのですからね。」つんとして見せた。 佐伯は、すぐに笑いを鎮めて、熊本君・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・いつも、きちっと痛いほど襟元を固く合せている四十歳前後の、その女将は、青白い顔をして出て来て、冷く挨拶した。「お泊りで、ございますか。」 女将は、笠井さんを見覚えていない様子であった。「お願いします。」笠井さんは、気弱くあいそ笑いし・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・(立ち上り、襟元を掻おお、寒い。雪が消えても、やっぱり夕方になると、冷えますね。お邪魔しました。風吹き起り、砂ほこりが立つ。春の枯葉も庭の隅で舞う。しづ、上手より退場。おしんこか何かとどけてくれると言ったが、あの・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・その度々に寒さはぞくぞく襟元へ浸み入る。勝手の方では、いっも居眠りしている下女が、またしても皿小鉢を破したらしい物音がする。炭団はどうやらもう灰になってしまったらしい。先生はこういう時、つくづくこれが先祖代々日本人の送り過越して来た日本の家・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 押詰められて、じじむさい襟巻した金貸らしい爺が不満らしく横目に睨みかえしたが、真白な女の襟元に、文句はいえず、押し敷かれた古臭い二重廻しの翼を、だいじそうに引取りながら、順送りに席を居ざった。赤いてがらは腰をかけ、両袖と福紗包を膝の上・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・同書に載せられた春の墨堤という一篇を見るに、「一、塵いまだたたず、土なほ湿りたる暁方、花の下行く風の襟元に冷やかなる頃のそぞろあるき。 一、夜ややふけて、よその笑ひ声も絶る頃、月はまだ出でぬに歩む路明らかならず、白髭あたり森影黒く交・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・訝しく、襟元を見ると、あたりまえに襟をつけず、深くくって細い白羽二重の縁がとってある。私共はいつもそういうのを着て居る。肌について居るものだから、いきなり、それお前の? ともきけず――人数が減り、家じゅうの空気がひどく透明で澄んで居るので、・・・ 宮本百合子 「木蔭の椽」
出典:青空文庫