・・・僕はまだ今日でも襟巻と云うものを用いたことはない。が、特にこの夜だけは南画の山水か何かを描いた、薄い絹の手巾をまきつけていたことを覚えている。それからその手巾には「アヤメ香水」と云う香水の匂のしていたことも覚えている。 僕の母は二階の真・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・ 妻は黒いコオトに、焦茶の絹の襟巻をして居りました。そうして鼠色のオオヴァ・コオトに黒のソフトをかぶっている私に、第二の私に、何か話しかけているように見えました。閣下、その日は私も、この第一の私も、鼠色のオオヴァ・コオトに、黒のソフトを・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・しかも垢じみた萌黄色の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下った膝の上には、大きな風呂敷包みがあった。その又包みを抱いた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事そうにしっかり握られていた。私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかった。それから彼女の服装が不潔・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・冬は暗緑色のオオヴァ・コートに赤い襟巻などを巻きつけて来た。この人はタウンゼンド氏に比べると、時々は新刊書も覗いて見るらしい。現に学校の英語会に「最近の亜米利加の小説家」と云う大講演をやったこともある。もっともその講演によれば、最近の亜米利・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・斐絹裏を正札附、ずらりと並べて、正面左右の棚には袖裏の細り赤く見えるのから、浅葱の附紐の着いたのまで、ぎっしりと積上げて、小さな円髷に結った、顔の四角な、肩の肥った、きかぬ気らしい上さんの、黒天鵝絨の襟巻したのが、同じ色の腕までの手袋を嵌め・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 日中は梅の香も女の袖も、ほんのりと暖かく、襟巻ではちと逆上せるくらいだけれど、晩になると、柳の風に、黒髪がひやひやと身に染む頃。もうちと経つと、花曇りという空合ながら、まだどうやら冬の余波がありそうで、ただこう薄暗い中はさもないが、処・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・一時間ほど前、土地の旅館の息子がぞろりとお召の着流しで来て、白い絹の襟巻をしたまま踊って行ったきり、誰も来なかった。覗きもしなかった。女中部屋でもよいからと、頭を下げた客もあるほどおびただしく正月の入湯客が流れ込んで来たと耳にはいっているの・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・顔を出したのは大隊副官と、綿入れの外套に毛の襟巻をした新聞特派員だった。「寒い満洲でも、兵タイは、こういう温い部屋に起居して居るんで……」「はア、なる程。」特派員は、副官の説明に同意するよりさきに、部屋の内部の見なれぬ不潔さにヘキエ・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・久留米絣の着物にハンチング、濃紺の絹の襟巻を首にむすんで、下駄だけは、白く新しかった。妻にもコオトがなかった。羽織も着物も同じ矢絣模様の銘仙で、うすあかい外国製の布切のショオルが、不似合いに大きくその上半身を覆っていた。質屋の少し手前で夫婦・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・私はすぐさま、どてらに羽織をひっかけ、毛糸の襟巻ぐるぐる首にまいて、表に飛び出した。甲府駅のまえまで、十五、六丁を一気に走ったら、もう、流石にぶったおれそうになった。電柱に抱きつくようにして寄りかかり、ぜいぜい咽喉を鳴らしながら一休みしてい・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
出典:青空文庫