・・・ この動物は、風の腥い夜に、空を飛んで人を襲うと聞いた……暴風雨の沖には、海坊主にも化るであろう。 逢魔ヶ時を、慌しく引き返して、旧来た橋へ乗る、と、 と鳴った。この橋はやや高いから、船に乗った心地して、まず意を安ん・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・もしか原稿はポストの周囲にでも落ちていないだろうかという危惧は、直ちに次いで我を襲うのである。そうしてどうしても三回、必ずポストを周って見る。それが夜ででもあればだが、真昼中狂気染みた真似をするのであるから、さすがに世間が憚られる、人の見ぬ・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・や爪先が冷く浪のさきに触れたので、昼間は鉄の鍋で煮上げたような砂が、皆ずぶずぶに濡れて、冷こく、宛然網の下を、水が潜って寄せ来るよう、砂地に立ってても身体が揺ぎそうに思われて、不安心でならぬから、浪が襲うとすたすたと後へ退き、浪が返るとすた・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・ 遥かに瞰下す幽谷は、白日闇の別境にて、夜昼なしに靄を籠め、脚下に雨のそぼ降る如く、渓流暗に魔言を説きて、啾々たる鬼気人を襲う、その物凄さ謂わむ方なし。 まさかこことは想わざりし、老媼は恐怖の念に堪えず、魑魅魍魎隊をなして、前途に塞・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・三児は遊びに飽きると時々自分の書見の室に襲うてくる。 三人が菓子をもらいに来る、お児がいちばん無遠慮にやってくる。「おんちゃん、おんちゃん、かちあるかい、かち、奈子ちゃんがかちだって」 続いて奈々子が走り込む。「おっちゃんあ・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・時としては朝早くから私の寝込を襲うて午飯も晩飯も下宿屋の不味いものを喰って夜る十一時十二時近くまで話し込んだ事もあった。 その時分即ち本所時代の緑雨はなかなか紳士であった。貧乏咄をして小遣銭にも困るような泣言を能くいっていても、いつでも・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・あたかも疾病の襲うところとなりて人の健康がわかると同然であります。平常のときには弱い人も強い人と違いません。疾病に罹って弱い人は斃れて強い人は存るのであります。そのごとく真に強い国は国難に遭遇して亡びないのであります。その兵は敗れ、その財は・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・誰でもが自分の生活を享楽と、総て喜びでありたいと願うだろうが、併しそれは、健康な者が常に健康ではあり得ないように、少しの間隙が生ずれば、直に不安は襲うて来るであろう。又それは、明るみを歩む人間に、常に暗い影が伴い、喜びの裡に悲しみの潜むのと・・・ 小川未明 「波の如く去来す」
・・・二十歳にもなってと登勢はわらったが、それから半年たった正月、奉行所の一行が坂本を襲うてきた気配を知ったとたん、裸かのまま浴室からぱっと脱けだして無我夢中で坂本の部屋へ急を知らせた時のお良は、もう怪談に真蒼になった娘とも思えず、そして坂本と夫・・・ 織田作之助 「螢」
・・・ それに夫婦生活には必ず、倦怠期があるし、境遇上に不幸が襲うし、相手にそれほどでもなかったという期待はずれが生じるものだ。そういうとき、本当に愛し合ったいろいろの思い出は愛を暖め直すし、またあきらめがつく。あれだけ愛したのだものをと思わ・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
出典:青空文庫