・・・閑事と表記してあるのは、急を要する用事でも何んでも無いから、忙がしくなかったら披いて読め、他に心の惹かれる事でもあったら後廻しにしてよい、という注意である。ところがその閑事としてあったのが嬉しくて、他の郵書よりはまず第一にそれを手にして開読・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ いちいちにかぞえきたれば、その種類はかぎりもないが、要するに、死そのものを恐怖すべきではなくて、多くは、その個々が有している迷信・貪欲・痴愚・妄執・愛着の念をはらいがたい境遇・性質等に原因するのである。故に見よ。彼らの境遇や性質が、も・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・すくなくも二人もしくは二人半の働き手を要するのが普通の農家である。それを思うと、いかに言っても太郎の家では手が足りなかった。私が妹に薄くしてもと考えるのは、その金で兄の手不足を補い、どうかしてあの新しい農家を独立させたかったからで。 言・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・あの情味が新開眼の自己道徳には伴わない。要するに新旧いずれに就くも、実行的人生の理想の神聖とか崇高とかいう感じは消え去って、一面灰色の天地が果てしもなく眼前に横たわる。讃仰、憧憬の対当物がなくなって、幻の華の消えた心地である。私の本心の一側・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・財産争いなどという事は無かった。要するに誰も、醜態を演じなかった。津軽地方で最も上品な家の一つに数えられていたようである。この家系で、人からうしろ指を差されるような愚行を演じたのは私ひとりであった。 × 余の幼少の折・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・これでは十日計画の浅間登山プランも更に考慮を要する訳である。 宿の夜明け方に時鳥を聞いた。紛れもないほととぎすである。郷里高知の大高坂城の空を鳴いて通るあのほととぎすに相違ない。それからまた、やはり夜明けごろに窓外の池の汀で板片を叩くよ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・犠牲、実に多くの犠牲を要する。日露の握手を来すために幾万の血が流れたか。彼らは犠牲である。しかしながら犠牲の種類も一ではない。自ら進んで自己を進歩の祭壇に提供する犠牲もある。――新式の吉田松陰らは出て来るに違いない。僕はかく思いつつ常に世田・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・数寄を凝した純江戸式の料理屋の小座敷には、活版屋の仕事場と同じように白い笠のついた電燈が天井からぶらさがっているばかりか遂には電気仕掛けの扇風器までが輸入された。要するに現代の生活においては凡ての固有純粋なるものは、東西の差別なく、互に噛み・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・然し全治までには長い時間を要すると医師は診断した。告訴を受ければ太十は監獄署の門をくぐらねばならぬと思って居る。彼はどれ程警察署や監獄署に恐怖の念を懐いたろう。彼はそれからげっそり窶れて唯とぼとぼとした。事件は内済にするには彼の負担としては・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・今日の四角は明日の三角にならないとも限らないし、明日の三角がまたいつ円く崩れ出さないとも云えない。要するに幾何学のように定義があってその定義から物を拵え出したのでなくって、物があってその物を説明するために定義を作るとなると勢いその物の変化を・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
出典:青空文庫