・・・蜻蛉のからだが、秋の日ざしに、透きとおって見える。 秋ハ夏ノ焼ケ残リサ。と書いてある。焦土である。 夏ハ、シャンデリヤ。秋ハ、燈籠。とも書いてある。 コスモス、無残。と書いてある。 いつか郊外のおそばやで、ざるそば待っている・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・それが優しい、褐色の、余り大きいとさえ云いたいような、余りきらきらする潤いが有り過ぎるような目の中から耀いて見える。 無邪気な事は小児のようである。軽はずみの中にさえ、子供めいた、人の好げな処がある。物を遣れば喜ぶ。装飾品が大好きである・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・楊樹の彼方に白い壁の支那民家が五、六軒続いて、庭の中に槐の樹が高く見える。井戸がある。納屋がある。足の小さい年老いた女がおぼつかなく歩いていく。楊樹を透かして向こうに、広い荒漠たる野が見える。褐色した丘陵の連続が指さされる。その向こうには紫・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ この仕事を仕遂げるために必要であった彼の徹底的な自信はあらゆる困難を凌駕させたように見える。これも一つのえらさである。あらゆる直接経験から来る常識の幻影に惑わされずに純理の道筋を踏んだのは、数学という器械の御蔭であるとしても、全く抽象・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・「尼ヶ崎から、あすこへ軍兵の押し寄せてくるのが見えるかしら」私は尼ヶ崎の段を思いだしながら言った。「あれが淡路ですぜ。よくは見えませんでしょうがね」 私は十八年も前に、この温和な海を渡って、九州の温泉へ行ったときのことを思いだし・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼の墓で名高い寺である。豪・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・ はたで眺めるぶんには、仕事も気楽に見えるが、実際自分でやるとなると、たかがこんにゃく売りくらいでも、なかなか骨が折れるものだ。 ――こんにゃはァ、こんにゃはァ、 ただこのふれごえ一つだけでも、往来の真ン中で、みんなが見ているところ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ 池の端を描いた清親の板画は雪に埋れた枯葦の間から湖心遥に一点の花かとも見える弁財天の赤い祠を望むところ、一人の芸者が箱屋を伴い吹雪に傘をつぼめながら柳のかげなる石橋を渡って行く景である。この板画の制作せられたのは明治十二三年のころであ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・斜に射すランプの光で唄って居る二女の顔が冴えて見える。一段畢ると家の内はがやがやと騒がしく成る。煙草の烟がランプをめぐって薄く拡がる。瞽女は危ふげな手の運びようをして撥を絃へ挿んで三味線を側へ置いてぐったりとする。耳にばかり手頼る彼等の癖と・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・「あの木立は枝を卸した事がないと見える。梅雨もだいぶ続いた。よう飽きもせずに降るの」と独り言のように言いながら、ふと思い出した体にて、吾が膝頭を丁々と平手をたてに切って敲く。「脚気かな、脚気かな」 残る二人は夢の詩か、詩の夢か、ちょと解・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫