・・・それは鋤に寄りかかる癖があるからで、それでまた左の肩を別段にそびやかして歩み、体格が総じて歪んで見える。膝のあたりを格別に拡げるのは、刈り入れの時、体躯のすわる身がまえの癖である。白い縫い模様のある襟飾りを着けて、糊で固めた緑色のフワフワし・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・それでは午になったと見える。少しの間だと思ったが、酔ったのと疲れがあったのとで、時の立つのを知らずにいた。その代りひどく気分がようなった。茶漬でも食べて、そろそろ東光院へ往かずばなるまい。お母あさまにも申し上げてくれ」 武士はいざという・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・世の乱れとてぜひもなく、このころ軍があッたと見え、そこここには腐れた、見るも情ない死骸が数多く散ッているが、戦国の常習、それを葬ッてやる和尚もなく、ただところどころにばかり、退陣の時にでも積まれたかと見える死骸の塚が出来ていて、それにはわず・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・痩せた片肩がひどく怒って見えるのは、子供の頃彼の家が、まだ此の村で安泰であった時と同じであった。そして、まだ変らぬものは、彼の姿を浮かばせている行く手に固まった安泰な山々の姿であった。四 西風が吹いて来た。勘次は桑の根株を割・・・ 横光利一 「南北」
・・・ 己の鑑定では五十歳位に見える。 下宿には大きい庭があって、それがすぐに海に接している。カツテガツトの波が岸を打っている。そこを散歩して、己は小さい丘の上に、樅の木で囲まれた低い小屋のあるのを発見した。木立が、何か秘密を掩い蔽すよう・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・外の廊下の鈍い、薄赤い明りで見れば、影のように二三人の人の姿が見える。新しく着いた旅人がこの部屋に這入って来るのである。旅人は這入って戸を締めた。フィンクはその影がどこへ落ち着くか見定めようと、一しょう懸命に見詰めている。しかし影は声もなく・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・しかも熱に浮かされた自分にはその空虚が充溢に見えるのである。 大業にし過ぎるということは若い者にあり勝ちの欠点かも知れない。重大事を重大事として扱うのに不思議はないと思うから。しかし引きしめて控え目に、ただ核実のみを絞り出す事は、嘘を書・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫