・・・ 青年は一刹那の間、老人と顔を見合せた。そしてなぜ見せている笑顔か知れない笑顔を眺めた。青年はその笑顔に励まされて、感動したような様子で、手に持った帽をまた被って、老人の肩に手をかけて、自分の青ざめた、今叫んだので少し赤くなった顔を、老・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・きょうだいたちも、流石に顔を見合せて、閉口している。末弟は、更にがくがくの論を続ける。「空論をお話して一向とりとめがないけれど、それは恐縮でありますが、丁度このごろ解析概論をやっているので、ちょっと覚えているのですが、一つの例として級数につ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・例えば家なき児レミがミリガン夫人に別れを告げて船を下りてから、ヴイタリス老人とちょっと顔を見合せて、そうしてあてのない旅路をふみ出すところなどでも、何でもないようで細かい情趣がにじんでいる。永い旅路と季節の推移を示す短いシーンの系列など、ま・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(5[#「5」はローマ数字、1-13-25])」
・・・八重はあしたの晩、哥沢節のさらいに、二上りの『月夜烏』でも唱おうかという時、植込の方で烏らしい鳥の声がしたので、二人は思わず顔を見合せて笑った。その時分にはダンスはまだ流行していなかったのだ。 麻布に廬を結び独り棲むようになってからの事・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・三人は無言のまま顔を見合せて微かに笑う。「あれは画じゃない、活きている」「あれを平面につづめればやはり画だ」「しかしあの声は?」「女は藤紫」「男は?」「そうさ」と判じかねて髯が女の方を向く。女は「緋」と賤しむごとく答える。「百二十間の廻・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ なんて言って眼と顔を見合せます。相手は眼より外のところは見えません。眼も一つだけです。 命がけの時に、痛快だなんてのは、まったく沙汰の限りです。常識を外れちゃいけない。ところが、 ――理屈はそれでもいいかしれないが、監獄じゃ理・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・ 張り替えたばかりではあるが、朦朧たる行燈の火光で、二女はじッと顔を見合わせた。小万がにッこりすると吉里もさも嬉しそうに笑ッたが、またさも術なそうな色も見えた。「平田さんが今おいでなさッたから、お梅どんをじきに知らせて上げたんだよ」・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ みんなももっともだと思ったり、恐ろしくなったりしてお互に顔を見合せて逃げ出そうとしました。 すると俄に頭の上で、「いやいや、それはならん。」というはっきりした厳かな声がしました。 見るとそれは、銀の冠をかぶった岩手山でした・・・ 宮沢賢治 「狼森と笊森、盗森」
・・・二人の老人はかおを見合わせてホッと溜息をつきながらだまって涙ぐみながらトボトボとそのあとを追うて行く。精女は力のぬけた様に草の上に座ってつぼをわきに置きながら。シリンクス お主さまからしかられよう――私はただあの人が云って呉れと・・・ 宮本百合子 「葦笛(一幕)」
・・・こう言って忠利は今まで長十郎と顔を見合わせていたのに、半分寝返りをするように脇を向いた。「どうぞそうおっしゃらずに」長十郎はまた忠利の足を戴いた。「いかんいかん」顔をそむけたままで言った。 列座の者の中から、「弱輩の身をもって推・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫