・・・と驚いたが、抱く手の濡れるほど哀れ冷汗びっしょりで、身を揉んで逃げようとするので、さては私だという見境ももうなくなったと、気がついて悲しくなった。「しっかりしておくれ、お米さん、しっかりしておくれよ、ねえ。」 お米はただ切なそうに、・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・それというのも、新しい弟子が来ると、誰彼の見境いもなしに灸をすえてやろうと、執拗く持ちかけるからで、病気ならともかく、若い娘の身で、むやみに灸の跡をつけられてはたまったものではないと、たいていの娘は「高い山から」をすまさぬうちに、逃げてしま・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・それらは、今、雪に蔽われて、一面に白く見境いがつかなくなっていた。 なんでも兎は、草叢があったあたりからちょか/\走り出して来ては、雪の中へ消え、暫らくすると、また、他の場所からちょか/\と出て来た。その大きな耳がまず第一に眼についた。・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・それがある事情のため断然英国を後にして単身日本へ来る気になられたので、余らの教授を受ける頃は、まだ日本化しない純然たる蘇国語を使って講義やら説明やら談話やらを見境なく遣られた。それがため同級生は悉く辟易の体で、ただ烟に捲かれるのを生徒の分と・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・ 私の心の驚いたり感じさせられたりする事は、善悪の区別もなく、美醜の見境えもないので、私の毎日は何と云う動かされどうしな事でしょう。 或る時は身の置き所のない程自分が小さく見すぼらしいものになったり、そうかと思えば非常に拡がった自分・・・ 宮本百合子 「動かされないと云う事」
・・・冬、むっくり着ぶくれて、頬っぺたまで包む帽子をかぶっているところは女の子も男の子も見境いがつかない。チーチーパッパでやって行くが、上級の子は、女の子は大抵の女の子とつれ立ち、男の子は男の子とつれ立っている。ペーヴメントから溢れるほど大勢で威・・・ 宮本百合子 「砂遊場からの同志」
・・・一畳が床の間で、古びた横ものが壁と見境のつかない煤けた色でかかっていた。小さい変な台の上に、泥をこねて拵えたような頸長瓶があって、炉のところには竹を集めた蓋がしてある。狭い狭い場所であった。隅に、客間に使う座布団が置いたりしてある。 茶・・・ 宮本百合子 「百銭」
私が見境いなくものを読みたがり出した頃は、山田美妙の作品など顧られない時代になって居た。一つも読んだことはないが、感情の表現を大体音声や言葉づかいの上に誇張して示したらしい。雲中語の評者たちから、散々ひやかされて居るが、同・・・ 宮本百合子 「無題(六)」
出典:青空文庫