・・・人間は、善美の理想に向って、克己奮闘する時こそ、進歩も向上も見られるけれど、雷同し、隷属化された時は、自分自身の行くべき道すら見失うものであります。 人生の進路も、生活の形態も、一元的に決定することはできないであろう。故に、一つの主義が・・・ 小川未明 「文化線の低下」
・・・そうしてSの姿を見失うまいと、私はもはや傘もささずに、S達の行軍のあとを追うて行った。雨はなおも降っていた。 織田作之助 「面会」
・・・そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。 私はまたあの花火というやつが好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それか・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・成る程、人道主義者には此処はあんなにも悲痛で、陰惨で、救いのないものに見えるかも知れないが未来を決して見失うことのないプロレタリアートは何処にいようが「朗か」である。のん気に鼻唄さえうたっている。 時々廊下で他の「編笠」と会うことがある・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・夕方は人どおりも少ないために、肉屋と店のものとは、犬のすがたを見失うこともなく、歩いたり走ったりして、どんどんついていきました。「何だ。どこまでいくんだろう。え、おい。ずいぶん遠くまで来たじゃないか。」 犬はまだどんどんいって、とう・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・局部にとらわれて全体の権衡を見失う事もいよいよ多かった。セザンヌが「わかりますか、ヴォラール君。輪郭線が見る人から逃げる」と言ったほんとうの意味はよくはわからぬが、全くそういったような気のする事がしばしばあった。右の頬をつかまえたと思う間に・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・そうして赤は主人を見失うのである。そういう時には尻尾を脚の間へ曲げこんで首を垂れて極めて小刻みに帰って行く。赤は又庭へ雀がおりても駈けて行く。庭の桐の木から落ちたササキリが其長い髭を徐ろに動かしてるのを見て、赤は独で勇み出して庭のうちに輪を・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 安岡は、自分自身にさえ気取られないように、木柵に沿うて、グラウンドの塵一本さえ、その薄闇の中に見失うまいとするようにして進んだ。 やや柵の曲がった辺へ来ると、グラウンドではなく、街道を風のように飛んでゆく姿が見えた。 その風の・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 刻々の推移の中で、人間らしい生活を見失うまいとする若い男女の結合が、今日の新しい結婚の相貌であるということは、日本について云えるばかりでなく、いくつもの国々の、心ある若い世代の生きつつある姿であると思う。〔一九三九年十一月〕・・・ 宮本百合子 「これから結婚する人の心持」
・・・わたしたちが若い女性として美を愛するならば精神の美としての雄々しさを見失うことは出来ないと思います。わたしたちの眼がぱっちりと見ひらかれないで、睫がやにで半分閉されているようなとき、その眼を美しくするために冷たい水でもって眼をお洗いなさいと・・・ 宮本百合子 「自覚について」
出典:青空文庫