・・・ 僕はこの年をとった女に何か見覚えのあるように感じた。のみならず彼女と話していることに或愉快な興奮を感じた。そこへ汽車は煙をあげながら、静かにプラットフォオムへ横づけになった。僕はひとりこの汽車に乗り、両側に白い布を垂らした寝台の間を歩・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・では今笑った赤帽の顔は、今度こそ見覚えが出来たかと云うと、不相変記憶がぼんやりしている。いくら一生懸命に思い出そうとしても、あいつの頭には赤帽をかぶった、眼鼻のない顔より浮んで来ない。――これが千枝子の口から聞いた、二度目の妙な話なのだ。・・・ 芥川竜之介 「妙な話」
・・・その中の一人は見覚えのある同じ学校の主計官だった。武官に馴染みの薄い彼はこの人の名前を知らなかった。いや、名前ばかりではない。少尉級か中尉級かも知らなかった。ただ彼の知っているのは月々の給金を貰う時に、この人の手を経ると云うことだけだった。・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・そこには僕が考えていたとおり雑記帳や鉛筆箱とまじって見覚えのある絵具箱がしまってありました。なんのためだか知らないが僕はあっちこちを見廻してから、誰も見ていないなと思うと、手早くその箱の蓋を開けて藍と洋紅との二色を取上げるが早いかポッケット・・・ 有島武郎 「一房の葡萄」
・・・「おお、これは。」 名古屋に時めく大資産家の婿君で、某学校の教授と、人の知る……すなわち、以前、この蓮池邸の坊ちゃんであった。「見覚えがおありでしょう。」 と斜に向って、お町にいった。「まあ。」 時めく婿は、帽子を手・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・手が、砂地に引上げてある難破船の、纔かにその形を留めて居る、三十石積と見覚えのある、その舷にかかって、五寸釘をヒヤヒヤと掴んで、また身震をした。下駄はさっきから砂地を駆ける内に、いつの間にか脱いでしまって、跣足である。 何故かは知らぬが・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・慥にここと見覚えの門の扉に立寄れば、お蔦 感心でしょう。私も素人になったわね。風に鳴子の音高く、時に、ようようと蔭にて二三人、ハタハタと拍手の音。お蔦 でも不思議じゃありませんか。早瀬 何、月夜がかい。お・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・降りて見ればさすがに見覚えのある門構、あたり一軒も表をあけてる家もない。車屋には彼が云う通りの外に、少し許り心づけをやる。車屋は有難うござりますと、詞に力を入れて繰返した。 もう寝たのかしらんと危ぶみながら、潜戸に手を掛けると無造作に明・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ドコの百姓が下らぬ低級の落語に見っともない大声を出して笑うのかと、顧盻って見ると諸方の演説会で見覚えの島田沼南であった。例の通りに白壁のように塗り立てた夫人とクッつき合って、傍若無人に大きな口を開いてノベツに笑っていたが、その間夫人は沼南の・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・墓地は雪に埋まっていましたけれど、勇ちゃんは、木に見覚えがあったので、この下にお姉さんが眠っていると教えたのでした。「先生、私はお約束を守っておあいしにまいりました。それだのに、先生は、もうおいでがないのです。私は、ひとりぽっちで、さび・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
出典:青空文庫