・・・それは、太陽や月の直径の視角が約半度であること、それから腕をいっぱいに前方へ伸ばして指を直角に曲げ視線に垂直にすると、指一本の幅が視角にして約二度であるということであった。それでこの親譲りの簡易測角器械さえあれば、距離のわかったものの大きさ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・流れのなかをいくらかめだつたかい背の白浴衣地がまむかいにきて、視線があったとたん、ややあかっぽい頭髪がうつむいた。 ――すれちがうとき、女はつれの小娘に肩をぶっつけるようにしてまた笑い声をたてた。ひびく声であった。三吉は橋の袂までいって・・・ 徳永直 「白い道」
・・・紙上に見渡される世事の報道には、いかに重大な事件が記載せられていても、老人の身には本より何等の痛痒をも感じさせぬので、遣り場のない其の視線は纔に講談筆記の上につなぎ留められる。しかも講談筆記の題材たるや既に老人の熟知するところ。其の陳腐にし・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・二人の視線がひたと行き当る。演説者は濁りたる田舎調子にて御前はカーライルじゃないかと問う。いかにもわしはカーライルじゃと村夫子が答える。チェルシーの哲人と人が言囃すのは御前の事かと問う。なるほど世間ではわしの事をチェルシーの哲人と云うようじ・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・このように一つの物が、視線の方角を換えることで、二つの別々の面を持ってること。同じ一つの現象が、その隠された「秘密の裏側」を持っているということほど、メタフィジックの神秘を包んだ問題はない。私は昔子供の時、壁にかけた額の絵を見て、いつも熱心・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ セコンドメイトは、私と並んで、私が何を眺めているか検査でもするように、私の視線を追っかけていた。 私は左の股に手をやって、傷から来た淋巴腺の腫れをそうっと撫でた。まるで横痃ででもあるかのように、そいつは痛かった。 ――横痃かも・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・これではいかぬと思うて、少く頭を後へ引くと、視線が変ったと共にガラスの疵の具合も変ったので、火の影は細長い鍵のような者になった。今度はきっと風変りの顔が見えるだろうと見て居たけれど火の形が変なためか一向何も現れぬ。やや暫くすると何やら少し出・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・そういう運動に携っている婦人たちに対して、一般の婦人が一種皮肉な絶望の視線を向けるほど微々たるものであった。 社会の内部の複雑な機構に織り込まれて、労働においても、家庭生活においても、その最も複雑な部面におかれている婦人の諸問題を、それ・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・ 閭がその視線をたどって、入口から一番遠い竈の前を見ると、そこに二人の僧のうずくまって火に当っているのが見えた。 一人は髪の二三寸伸びた頭を剥き出して、足には草履をはいている。今一人は木の皮で編んだ帽をかぶって、足には木履をはいてい・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・ ルイザの視線はナポレオンの腹部に落ちた。ナポレオンの腹は、猛鳥の刺繍の中で、毛を落した犬のように汁を浮べて爛れていた。「ルイザ、余と眠れ」 だが、ルイザはナポレオンの権威に圧迫されていたと同様に、彼の腹の、その刺繍のような毒毒・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫