・・・と、年子は、しぜんに熱い涙がわくのを覚えました。見ると先生のお目にも涙が光っていました。「ええ、なりたけどこへもいきませんわ。」 こう先生は、おっしゃいました。けれど、先生のお母さんと、弟さんとが、田舎の町にいらして、先生のお帰りを・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・私はその匂を嗅ぐと、いっそう空腹がたまらなくなって、牽々と目が眩るように覚えた。外はクワッと目映しいほどよい天気だが、日蔭になった町の向うの庇には、霜が薄りと白く置いて、身が引緊るような秋の朝だ。 私が階子の踏子に一足降りかけた時、ちょ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 十五の歳から二十五の歳まで十年の間、白、茶、青と三つの紐の色は覚えているが、あとはどんな色の紐の前掛をつけたのやらまるで覚えがないくらい、ひんぱんに奉公先を変えました。里子の時分、転々と移っていたことに似ているわけだったが、しかしさす・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・またそれに見入っている彼自身がいかに情熱を覚え性欲を覚えるか。窓のなかの二人はまるで彼の呼吸を呼吸しているようであり、彼はまた二人の呼吸を呼吸しているようである、そのときの恍惚とした心の陶酔を思い出していた。「それに比べて」と彼は考え続・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・みたのだろうが、鸚鵡まで持ちこまれて、『お玉さん樋口さん』の掛合まで聞かされたものだから、かあいそうに、ばあさんすっかりもてあましてしまって、樋口のいない留守に鸚鵡を逃がしたもんだ、窪田君、あの滑稽を覚えているかえ。」 私はうなずきまし・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・波木井殿に対面ありしかば大に悦び、今生は実長が身に及ばん程は見つぎ奉るべし、後生をば聖人助け給へと契りし事は、ただ事とも覚えず、偏に慈父悲母波木井殿の身に入りかはり、日蓮をば哀れみ給ふか。」 かくて六月十七日にいよいよ身延山に入った。彼・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・自分でも偽せ札を拵えた覚えはなかった。そういうあやしい者から五円札を受取った記憶もなかった。けれども、物をはねとばさぬばかりのひどい見幕でやって来る憲兵を見ると、自分が罪人になったような動揺を感ぜずにはいられなかった。 憲兵伍長は、腹立・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・其物が有した性質が当時に作用した事も中々少くはなかったように覚えています。今でこそ別に不思議でもないのでありますが、彼の頃でああいうものは実に類例のないものであったのであります。勿論西洋のものもそろそろ入って来ては居りましたのですが、リット・・・ 幸田露伴 「言語体の文章と浮雲」
・・・其題に曰く学術技科の進闡せしをば人の心術風俗に於て益有りしと為す乎将た害ありしと為す乎とルーソー之を読みて神気俄に旺盛し、意思頓に激揚し自ら肺腸の一変して別人と成りしを覚え、殆ど飛游して新世界に跳入せしが如し。因て急に鉛筆を執りファプリシュ・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・そしてトウトウ覚えられなかった。―― 小さい時から仲のよかったお安は、この秋には何とか金の仕度をして、東京の監獄にいる兄に面会に行きたがった。母と娘はそれを楽しみに働くことにした。健吉からは時々検印の押さった封緘葉書が来た。それが来ると・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
出典:青空文庫