・・・を得ざれば胃の腑の必ず鳴るをこらえるもおかしく同伴の男ははや十二分に参りて元からが不等辺三角形の眼をたるませどうだ山村の好男子美しいところを御覧に供しようかねと撃て放せと向けたる筒口俊雄はこのごろ喫み覚えた煙草の煙に紛らかしにっこりと受けた・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 過日、わたしはもののはじに、ことしの夏のことを書き添えるつもりで、思わずいろいろなことを書き、親戚から送って貰った桃の葉で僅かに汗疹を凌いだこと、遅くまで戸も閉められない眠りがたい夜の多かったこと、覚えて置こうと思うこともかなり多いと書い・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・あの事をまだ覚えていて。あの時お前さんがわたしの言った通りにすると、今はちゃんと家持になっているのね。去年のクリスマスにはあの約束をおしの人の二親のいる、田舎の内にお前さんは行っていて、そういったっけね。もうもう芝居なんぞは厭だ。こんな田舎・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・が、彼等はスバーの跫音を覚えていました。言葉にこそ云わないけれども、彼女は、いかにも可愛くて堪らなそうに何か呟きます、牛共は、どんなに多くの言葉より、此優しい呟きをさとりました。彼女があやし、叱り、機嫌などを取ってやると、喋る大人がしてやる・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・たまに酒を呑んだからって、おらあ笑われるような覚えは無え。I can speak English. おれは、夜学へ行ってんだよ。姉さん知ってるかい? 知らねえだろう。おふくろにも内緒で、こっそり夜学へかよっているんだ。偉くならなければ、いけ・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・「僕と話をする時、君僕と云う男を一々覚えていられるものか。」尤もである。竜騎兵中尉と君僕の交換をしている人はむやみに多いのだから。殊に少し酒が廻っていると、君僕の交際範囲が広くなる。そこで一旦君僕で話をした人に、跡で改まった口上も使いに・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・こう思った渠は一種の恐怖と憧憬とを覚えた。戦友は戦っている。日本帝国のために血汐を流している。 修羅の巷が想像される。炸弾の壮観も眼前に浮かぶ。けれど七、八里を隔てたこの満洲の野は、さびしい秋風が夕日を吹いているばかり、大軍の潮のごとく・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・真なるかな此の言葉や此のごろ詼談師三遊亭の叟が口演せる牡丹灯籠となん呼做したる仮作譚を速記という法を用いてそのまゝに謄写しとりて草紙となしたるを見侍るに通篇俚言俗語の語のみを用いてさまで華あるものとも覚えぬものから句ごとに文ごとにうたゝ活動・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・あの日の事はまだよく覚えている。朝応用美術品陳列館へ行った。それから水族館へ行って両棲動物を見た。ラインゴルドで午食をして、ヨスチイで珈琲を飲んで、なんにするという思案もなく、赤い薔薇のブケエを買って、その外にも鹿の角を二組、コブレンツの名・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・樹名を書いた札のついているのは有難いがなかなか一度見たくらいでは覚えられそうもない。 池の方へ路の分れる処に茶店がある。そこで茶をのんで餅をつまんでいたら、同宿の若い夫婦連れがあとからはいって来た。腰を下ろしたと思うと御主人が「や、しま・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
出典:青空文庫