・・・「お絹ばあちゃがお弟子にお稽古をつけているのを、このちびさんが門前の小僧で覚えてしまうて……」祖母は気だるそうに笑っていた。 それがすむと、また二つばかり踊ってみせた。御褒美にバナナを貰って、いつか下へおりていった。「ここでも書・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 餓鬼時分からの恩をも忘れちまいやがって、俺の頭を打ち割るなんて……覚えてろ! ぶち込まれてから吠面掻くな……。 仰向けに、天井板を見つめながら、ヒクヒクと、うずく痛みを、ジッと堪えた。 会社がロックアウトをして以来、モウかれこれ四・・・ 徳永直 「眼」
・・・その頃わたくしは押川春浪井上唖々の二亡友と、外神田の妓を拉して一夜紫明館に飲んだことを覚えている。四五輛の人力車を連ねて大きな玄関口へ乗付け宿の女中に出迎えられた時の光景は当世書生気質中の叙事と多く異る所がなかったであろう。根津の社前より不・・・ 永井荷風 「上野」
・・・兼ねて覚えたる禅語にて即興なれば間に合わすつもりか。剛き髪を五分に刈りて髯貯えぬ丸顔を傾けて「描けども、描けども、夢なれば、描けども、成りがたし」と高らかに誦し了って、からからと笑いながら、室の中なる女を顧みる。 竹籠に熱き光りを避けて・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・有名な夏目漱石君は一年上の英文学にいたが、フローレンツの時間で一緒に『ヘルマン・ウント・ドロテーア』を読んでいたように覚えている。私共のクラスでは、大島義脩君が首席であった。しかしそれでも後に独特の存在となられたのは、近年亡くなられた岩本禎・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・時は蒸し暑くて、埃っぽい七月下旬の夕方、そうだ一九一二年頃だったと覚えている。読者よ! 予審調書じゃないんだから、余り突っ込まないで下さい。 そのムンムンする蒸し暑い、プラタナスの散歩道を、私は歩いていた。何しろ横浜のメリケン波戸場の事・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・と、小万は懐紙で鉄瓶の下を煽いでいる。 吉里は燭台煌々たる上の間を眩しそうに覗いて、「何だか悲アしくなるよ」と、覚えず腮を襟に入れる。「顔出しだけでもいいんですから、ちょいとあちらへおいでなすッて下さい」と、例のお熊は障子の外から声・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・たとえば、遠方より望み見れば円き山にても、その山に登れば円き処を見ず、はるかに眺むれば曲りたる野路も、親しくその路を践めば曲るところを覚えざるが如し。直接をもって真の判断を誤るものというべし。かかる弊害は、近日我が邦の政談上においてもおおい・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・あの時の事をまだ覚えていらっしゃって。あなたのいらっしゃる時とお帰りになる時とにあなたが子供でいらっしゃった時からの習慣で、わたくしはキスをしてお上げ申しましたのね。それはもと姉が弟にするキスであったのに、いつか温い感じが出て来ましたのね。・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・この十字架に掛けられていなさる耶蘇殿は定めて身に覚えがあろう。その疵のある象牙の足の下に身を倒して甘い焔を胸の中に受けようと思いながら、その胸は煖まる代に冷え切って、悔や悶や恥のために、身も世もあられぬ思をしたものが幾人あった事やら。お前は・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫