・・・彼の愛する風景は大きい丹塗りの観音堂の前に無数の鳩の飛ぶ浅草である。あるいはまた高い時計台の下に鉄道馬車の通る銀座である。それらの風景に比べると、この家々だの水路だのは何と云う寂しさに満ちているのであろう。鉄道馬車や鳩は見えずとも好い。せめ・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・さてはいよいよこれなりけりと心勇みて、疾く嚮導すべき人を得んと先ず観音堂を索むるに、見渡す限りそれかと覚しきものも見えねばいささか心惑う折から、寒月子は岨道を遥かに上り行きて、ここに堂あり堂ありと叫ぶ。嬉しやと己も走り上りて其処に至れば、眼・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 浅草公園はいつになったら昔の繁華にかえることができるのであろう。観音堂が一立斎広重の名所絵に見るような旧観に復する日は恐くもう来ないのかも知れない。 昭和十二年、わたくしが初めてオペラ館や常盤座の人たちと心易くなった時、既に震災前・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・浅草に観音堂がある。それと同じように、私の生れた小石川をばあくまで小石川らしく思わせ、他の町からこの一区域を差別させるものはあの伝通院である。滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院である。・・・ 永井荷風 「伝通院」
出典:青空文庫