・・・「不相変、観音様へ参詣する人が多いようだね。」「左様でございます。」 陶器師は、仕事に気をとられていたせいか、少し迷惑そうに、こう答えた。が、これは眼の小さい、鼻の上を向いた、どこかひょうきんな所のある老人で、顔つきにも容子にも・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・「お気をつけなさい。観音、釈迦八幡、天神、――あなたがたの崇めるのは皆木や石の偶像です。まことの神、まことの天主はただ一人しか居られません。お子さんを殺すのも助けるのもデウスの御思召し一つです。偶像の知ることではありません。もしお子さん・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・ 田代君はこう云いながら、一体の麻利耶観音を卓子の上へ載せて見せた。 麻利耶観音と称するのは、切支丹宗門禁制時代の天主教徒が、屡聖母麻利耶の代りに礼拝した、多くは白磁の観音像である。が、今田代君が見せてくれたのは、その麻利耶観音の中・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・と強くいうのが優しくなって、果は涙になるばかり、念被観音力観音の柳の露より身にしみじみと、里見は取られた手が震えた。 後にも前にも左右にもすくすくと人の影。「あッ。」とばかり戦いて、取去ろうとすると、自若として、「今では誰が見て・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・これを強いて一纏めに命名すると、一を観音力、他を鬼神力とでも呼ぼうか、共に人間はこれに対して到底不可抗力のものである。 鬼神力が具体的に吾人の前に現顕する時は、三つ目小僧ともなり、大入道ともなり、一本脚傘の化物ともなる。世にいわゆる妖怪・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・が、遠くの掛軸を指し、高い処の仏体を示すのは、とにかく、目前に近々と拝まるる、観音勢至の金像を説明すると言って、御目、眉の前へ、今にも触れそうに、ビシャビシャと竹の尖を振うのは勿体ない。大慈大悲の仏たちである。大して御立腹もあるまいけれども・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・ 時に、勿体ないが、大破落壁した、この御堂の壇に、観音の緑髪、朱唇、白衣、白木彫の、み姿の、片扉金具の抜けて、自から開いた廚子から拝されて、誰が捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、御袖、裳に紛いつつ、銑吉が参らせた蝋燭の灯に、格天井・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ 白髪に尊き燈火の星、観音、そこにおはします。……駈寄って、はっと肩を抱いた。「お祖母さん、どうして今頃御経を誦むの。」 慌てた孫に、従容として見向いて、珠数を片手に、「あのう、今しがた私が夢にの、美しい女の人がござっての、・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・随って手洗い所が一番群集するので、喜兵衛は思附いて浅草の観音を初め深川の不動や神田の明神や柳島の妙見や、その頃流行った諸方の神仏の手洗い所へ矢車の家紋と馬喰町軽焼淡島屋の名を染め抜いた手拭を納めた。納め手拭はいつ頃から初まったか知らぬが、少・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 観音経を唱えていた神経衰弱の伍長が、ふと、湯呑をチンチン叩くのをやめた。 負傷者は、傷をかばいながら、頭を擡げて窓口へ顔を集めた。五六台の橇が院庭へ近づいてきた。橇は、逆に馬をうしろへ引きずって丘を辷り落ちそうに見えた。馭者台から・・・ 黒島伝治 「氷河」
出典:青空文庫