・・・実際それらは天に向かって伸びた無数の触手のように見えたものです。僕らは玄関の前にたたずんだまま、しばらくこの建築よりもむしろ途方もない怪物に近い稀代の大寺院を見上げていました。 大寺院の内部もまた広大です。そのコリント風の円柱の立った中・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・そして解した髪の毛の先が触手の恰好に化けて、置いてある鉢から菓子をつかみ、その口へ持ってゆこうとしているのです。が、女はそれを知っているのか知らないのか、あたりまえの顔で前を向いています。――私はそれを見たときいやな気がしました。ところがこ・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・向日性を持った、もやしのように蒼白い堯の触手は、不知不識その灰色した木造家屋の方へ伸びて行って、そこに滲み込んだ不思議な影の痕を撫でるのであった。彼は毎日それが消えてしまうまでの時間を空虚な心で窓を展いていた。 展望の北隅を支えている樫・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・それでも飽き足らずに今度は垣の反対側のかえでまでも触手をのばしてわたりをつけた。そうしてそのつるの端は茂ったかえでの大小の枝の間から糸のように長くたれさがって、もう少しでその下の紅蜀葵の頭に届きそうである。この驚くべき征服欲は直径わずかに二・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・それでも飽き足らずに今度は垣の反対側の楓樹までも触手をのばしてわたりを付けた。そうしてその蔓の端は茂った楓の大小の枝の間から糸のように長く垂れさがって、もう少しでその下の紅蜀葵の頭に届きそうである。この驚くべき征服慾は直径わずかに二、三ミリ・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・ 交通機関の拡がるのは、風の弱い日の火事の拡がるように全面的ではなくて、不規則な線に沿うて章魚の足のごとく菌糸のごとく播がり、又てづるもづるの触手のごとく延びるのである。それがために暗黒アフリカの真只中にロンドン製品の包紙がちらばるよう・・・ 寺田寅彦 「猫の穴掘り」
・・・を見たときに、スクリーンに現われた地図の上を一本の光の線で示された鉄路の触手がにょろにょろと南に延びて行ってヒマラヤの北に近づくを見た。今度の探険隊員の講演の際壁にかけられた粗末な北氷洋の海図の上を赤い線で示された航路の触手がするすると東に・・・ 寺田寅彦 「北氷洋の氷の割れる音」
・・・「意識の上では自分の独立判断でやっていると思うが、その基礎になっている新聞とかラジオとかをみると、ある一つの政治的勢力が大きな触手をのばして一つの方向にひきずってゆこうという効果をあげている」「人間をカラッポにして全部外へはみ出させてキャナ・・・ 宮本百合子 「アメリカ文化の問題」
・・・アミーバーが触手を拡げて獲物を圧し包み忽ち溶かして養分とするように私は生活力と云う触手であらゆるものに触れ 味を知り精神の世界を 這い廻るのです。 感じ人間は 実に面白く生きる愉びは限りない・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・るようで、デモクラシーの名とともに燦く富の力はそれらの青年たちのまるで身近くまでちかづいて、クライドのようにそのなかに入ったように見えるところまで来て、さていざとなると、富める者は自分たちの気まぐれな触手をさっと引っこめて、貧しい無援な青年・・・ 宮本百合子 「文学の大陸的性格について」
出典:青空文庫