・・・一日山上で労働して後に味わったそれらの食物のうまかったことは言うまでもない。 そのテント生活中にN先生に安全剃刀でひげを剃ってもらったのを覚えている。それは剃刀が切れ味があまりよくなくて少し痛かったせいもあるが、それまで一度も安全剃刀と・・・ 寺田寅彦 「詩と官能」
・・・上述のガリレー、ニュートンの発見に関する逸話はその実信ずるに足らぬ俗説であるが、しかしこれらの発見をするためにはまた非凡な準備素養を要した事は言うまでもない。ルベリエが海王星を発見したのも、天王星の運動を精細に知りその運動の説明しがたき小不・・・ 寺田寅彦 「知と疑い」
・・・それがどんなに私を喜ばせ興奮させたかは言うまでもない。 約束の日に白山御殿町のケーベルさんの家を捜して植物園の裏手をうろついて歩いた。かなり暑い日で近辺の森からは蝉の声が降るように聞こえていたと思う。 若い男の西洋人が取り次ぎに出た・・・ 寺田寅彦 「二十四年前」
・・・ 鐘は昼夜を問わず、時の来るごとに撞きだされるのは言うまでもない。しかし車の響、風の音、人の声、ラヂオ、飛行機、蓄音器、さまざまの物音に遮られて、滅多にわたくしの耳には達しない。 わたくしの家は崖の上に立っている。裏窓から西北の方に・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・剣の力、槍の力で遂ぐべき程の事柄であるは言うまでもない」クララは吾を透す大いなる眼を翻して第四はと問う。「第四の時期を Druerie と呼ぶ。武夫が君の前に額付いて渝らじと誓う如く男、女の膝下に跪ずき手を合せて女の手の間に置く。女かたの如・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・勿論寝て居ての仕事であるから一寸以上の線を思うように引くことさえ出来ぬので、その拙なさ加減は言うまでもないが、ただ絵具をなすりつけていろいろな色を出して見ることが非常に愉快なので、何か枕元に置けるような、小さな色の美しい材料があればよいがと・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・論をすすめ、ペトロニウスを引合いに出したりして前世紀文学の文体の中庸と新古典主義時代の内容とを求め、ジョルジュ・サンドと比べて「マダム・サンドがバルザックよりも大きな確かな、力強い作家であることは今更言うまでもない」という風な我々の理解力で・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・ 然しながら、そのような今日の到達点の内容こそ、実に積極的に評価され、批判されなければならぬ過去のこれらの努力の集積の上に展開されたものであることは、言うまでもない。芸術価値評価の規準についての論究、社会民主主義文学派の動向に対する注目・・・ 宮本百合子 「『文芸評論』出版について」
・・・権兵衛の肩幅のせまくなったことは言うまでもない。弟どもも一人一人の知行は殖えながら、これまで千石以上の本家によって、大木の陰に立っているように思っていたのが、今は橡栗の背競べになって、ありがたいようで迷惑な思いをした。 政道は地道である・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・自分の生涯や仕事について心残りの多いのは言うまでもない事だ。それでも私は静かに死ねるだろうか。黙って運命に頭を下げる事ができるだろうか。―― 私はこうして自分を押しつめてみた。そうして自分にまるで死ぬつもりのないことを発見した。「今死ん・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫