・・・ 日本人は一句一句、力を入れて言うのです。「私の主人は香港の日本領事だ。御嬢さんの名は妙子さんとおっしゃる。私は遠藤という書生だが――どうだね? その御嬢さんはどこにいらっしゃる」 遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・早田は俺しの言うことが飲み込めておらんから聞きただしているのじゃないか。もう一度俺しの言うことをよく聞いてみるがいい」 そう言って、父は自分の質問の趣意を、はたから聞いているときわめてまわりくどく説明するのだったが、よく聞いていると、な・・・ 有島武郎 「親子」
・・・こう云うのはフレンチの奥さんである。若い女の声がなんだか異様に聞えるのである。 フレンチは水落を圧されるような心持がする。それで息遣がせつなくなって、神経が刺戟せられる。「うん。すぐだ。」不機嫌な返事をして、神経の興奮を隠そうとして・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 事によったらこの小娘も、いつか魚に同情を寄せてこんな事を言うようになるだろう。「宅の娘なんぞは、どんな事があっても、あんな無慈悲なことをさせようとは思いません」などと云うだろう。 しかしそんな優しい霊の動きは、壊された、あらゆ・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・A 殊勝な事を言う。それでは今度の下宿はうまい物を食わせるのか。B 三度三度うまい物ばかり食わせる下宿が何処にあるもんか。A 安下宿ばかりころがり歩いた癖に。B 皮肉るない。今度のは下宿じゃないんだよ。僕はもう下宿生活には飽・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ それも心細く、その言う処を確めよう、先刻に老番頭と語るのをこの隠れ家で聞いたるごとく、自分の居処を安堵せんと欲して、立花は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて試た。 人の妻と、かかる術して忍び合うには、疾く我がためには、神なく、物・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・女子供や隠居老人などが、らちもなき手真似をやって居るものは、固より数限りなくある、乍併之れらが到底、真の茶趣味を談ずるに足らぬは云うまでもない、それで世間一般から、茶の湯というものが、どういうことに思われて居るかと察するに、一は茶の湯という・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
跡のはげたる入長持 聟入、取なんかの時に小石をぶつけるのはずいぶんらんぼうな事である。どうしたわけでこんな事をするかと云うと是はりんきの始めである。人がよい事があるとわきから腹を立てたりするのも世の中の人心・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・それも大勢のお立て合う熱に浮されたと云うたら云えんこともなかろう。もう、死んだんが本統であったんやも知れんけど、兎角、勇気のないもんがこない目に会うて」と、左の肩を振って見せたが、腕がないので、袖がただぶらりと垂れていた。「帰って来ても、廃・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・この狂歌が呼び物となって、誰言うとなく淡島屋の団扇で餅を煽ぐと運が向いて来るといい伝えた。昔は大抵な家では自宅へ職人を呼んで餅を搗かしたもんで、就中、下町の町家では暮の餅搗を吉例としたから淡島屋の団扇はなければならぬものとなって、毎年の年の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫