・・・』 アウシュコルンはなぜそんな不審が自分の上にかかったものか少しもわからないので、もうはや懼れて、言葉もなく市長を見つめた。『わしがって、わしがその手帳は拾ったッて。』『そうだ、お前がよ。』『わしは誓います、わしはてんでそん・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・シチュアシヨンの上に成り立つ情調なんぞと云う詞を読んでも、何物をもはっきり考えることが出来ない。木村は随分哲学の本も、芸術を論じた本も読んでいるが、こんな詞を読んでは、何物をもはっきり考えることが出来ない。いかにも文芸には、アンデフィニッサ・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・その詞はざっとこんな物であった。「神の徳は大きい。お前さんをいじめた人の手からお前さんを救って下された。お前さんをいじめた人にも神は永遠なる安息をお与えなさるだろう。だがお前さんはまだ若い。こうなった方がかえってよかったかも知れない。あの男・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
上 この武蔵野は時代物語ゆえ、まだ例はないが、その中の人物の言葉をば一種の体で書いた。この風の言葉は慶長ごろの俗語に足利ごろの俗語とを交ぜたものゆえ大概その時代には相応しているだろう。 ああ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・なぜなら、それらの人々は感覚と云う言葉について不分明であったか若くは感覚について夫々の独断的解釈を解放することが不可能であったか、或いは私自身の感覚観がより独断的なものであったかのいずれかにちがいなかったからである。だが、今の所、「分らない・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・こう云いさして、大層意味ありげに詞を切って、外の事を話し出した。なんだかエルリングの事は、食卓なんぞで、笑談半分には話されないとでも思うらしく見えた。 食事が済んだ時、それまで公爵夫人ででもあるように、一座の首席を占めていたおばさんが、・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ この詞を、女は悲しげに云った。しかし悲しいながらも自分の運命と和睦している、不平のない声で云った。 フィンクは驚き呆れた風で、間を悪げに黙った。そして暗い所を透かして見たが、なんにも見えなかった。空気はむっとするようで、濃くなって・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・よく僕は奥さまの仰しゃる通りに、頭を胸へよせ掛けて、いつまでか抱れていると、ジット顔を見つめていながら色々仰ったその言葉の柔和さ! それからトント赤子でもあやすように、お口の内で朧におっしゃることの懐かしさ! 僕は少さい内から、まじめで静か・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・――で、私は友人と二人でヒドイ言葉を使って彼を罵りました。私の妻は初めから黙って側で編物をしていました。やがて私はだんだん心の空虚を感じて来て、ふと妻の方に眼をやりました。妻も眼を上げて黙って私を見ました。その眼の内には一撃に私を打ち砕き私・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫