・・・ 信濃町の停留場は、割合に乗る少女の少ないところで、かつて一度すばらしく美しい、華族の令嬢かと思われるような少女と膝を並べて牛込まで乗った記憶があるばかり、その後、今一度どうかして逢いたいもの、見たいものと願っているけれど、今日までつい・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 桑木博士と対話の中に、蒸気機関が発明されなかったら人間はもう少し幸福だったろうというような事があったように記憶している。また他の人と石炭のエネルギーの問題を論じている中に、「仮りに同一量の石炭から得られるエネルギーがずっと増したとすれ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 東京下町の溝の中には川のながれと同じように、長く都人に記憶されていた名高いものも少くはなかった。菊屋橋のかけられた新堀の流れ。三枚橋のかけられていた御徒町の忍川の如き溝渠である。 そのころ人の家をたずね歩むに当って、番地よりも橋の・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・胡桃の裏に潜んで、われを尽大千世界の王とも思わんとはハムレットの述懐と記憶する。粟粒芥顆のうちに蒼天もある、大地もある。一世師に問うて云う、分子は箸でつまめるものですかと。分子はしばらく措く。天下は箸の端にかかるのみならず、一たび掛け得れば・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・と題する一文があり、何の墓を見ても、よき夫、よき妻、よき子と書いてある、悪しき人々は何処に葬られているのであろうかという如きことがあったと記憶する。諸君も屍に鞭たないという寛大の心を以て、すべての私の過去を容してもらいたい。 彼はこうい・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・その夢の記憶の中で、彼は支那人と賭博をしていた。支那人はみんな兵隊だった。どれも辮髪を背中にたれ、赤い珊瑚玉のついた帽子を被り、長い煙管を口にくわえて、悲しそうな顔をしながら、地上に円くうずくまっていた。戦争の気配もないのに、大砲の音が遠く・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・ 余輩の所見をもって、旧中津藩の沿革を求め、殊に三十年来、余が目撃と記憶に存する事情の変化を察すれば、その大略、前条のごとくにして、たとい僥倖にもせよ、または明に原因あるにもせよ、今日旧藩士族の間に苦情争論の痕跡を見ざるは事実において明・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・ この手紙を書いた女はピエエル・オオビュルナンの記憶にはっきり残っている。この文字はマドレエヌ・スウルヂェエの手である。自分がイソダンで識っていた時は未亡人でいた美人である。それが自分のパリイに出たあとで再縁して、今ではマドレエヌ・ジネ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・もっとも十年ほど前に予が房総を旅行した時に見分した所でも上総をあるく間は少しもげんげんを見た事がなかったので、この辺には全くないのかと思うたら、房州にはいってからげんげんを見た事を記憶して居る。上総にもげんげんはないではないが、余り多くない・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・「どうも実に記憶のいいやつらだ。ええ、千五百の万年の前のその時をお前は忘れてしまっているのかい。まさか忘れはしないだろうがね、ええ。これはどうも実に恐れ入ったね、いったい誰だ。変に頭のいいやつは。」大学士は又そろそろと起きあがり・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
出典:青空文庫