・・・そうして、その序に、当時西丸にいた、若年寄の板倉佐渡守を訪うて、帰宅した。が、別に殿中では、何も粗そそうをしなかったらしい。宇左衛門は、始めて、愁眉を開く事が出来るような心もちがした。 しかし、彼の悦びは、その日一日だけも、続かなかった・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・これはさらに自分の思い出したくないことであるが、おそらくその時の自分は、いかにも偉大な思想家の墓前を訪うらしい、思わせぶりな感傷に充ち満ちていたことだろうと思う。ことによるとそのあとで、「竜華寺に詣ずるの記」くらいは、惻々たる哀怨の辞をつら・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・近県近郷の学校の教師、無論学生たち、志あるものは、都会、遠国からも見学に来り訪うこと、須賀川の牡丹の観賞に相斉しい。で、いずれの方面からも許されて、その旦那の紳士ばかりは、猟期、禁制の、時と、場所を問わず、学問のためとして、任意に、得意の猟・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・もともと私どもの、この旅客は、その小学校友だちの邸あとを訪うために来た。……その時分には遊びに往来もしたろうものを、あの、椎の樹婆叉を知らないのかと、お町が更に怪しんで言うのであった。が、八ツや十ウのものを、わざと親たちは威しもしまい。……・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・一頃は訪う人どころか、苔の下に土も枯れ、水も涸いていたんですが、近年他国の人たちが方々から尋ねて来て、世評が高いもんですから、記念碑が新しく建ちましてね、名所のようになりました。それでね、ここのお寺でも、新規に、初路さんの、やっぱり記念碑を・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・自分は知人某氏を両国に訪うて第二の避難を謀った。侠気と同情に富める某氏は全力を尽して奔走してくれた。家族はことごとく自分の二階へ引取ってくれ、牛は回向院の庭に置くことを諾された。天候情なくこの日また雨となった。舟で高架鉄道の土堤へ漕ぎつけ、・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・佐介も一夜省作の家を訪うて、そのいさくさなしの気質を丸出しにして、省作の兄と二人で二升の酒を尽くし、おはまを相手に踊りまでおどった。兄は佐介の元気を愛して大いに話し口が合う。「あなたのおとッつさんが、いくらやかましくいっても、二人を分け・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・というような調子でやって来て、帰った時にはその晩の勘定五円なにがしを払ってあったので、気の毒に思って、僕はすぐその宿を訪うと、まだ帰らないということであった。どこかでまた焼け酒を飲んでいるのだろうと思ったから、その翌朝を待って再び訪問すると・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・椿岳の伝統を破った飄逸な画を鑑賞するものは先ずこの旧棲を訪うて、画房や前栽に漾う一種異様な蕭散の気分に浸らなければその画を身読する事は出来ないが、今ではバラックの仮住居で、故人を偲ぶ旧観の片影をだも認められない。 寒月の名は西鶴の発見者・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・忌々しくてならないので、帰ると直ぐ「鴎外を訪うて会わず」という短文を書いて、その頃在籍していた国民新聞社へ宛ててポストへ入れに運動かたがた自分で持って出掛けた。で、直ぐ近所のポストへ投り込んでからソコラを散歩してかれこれ三十分ばかりして帰る・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
出典:青空文庫