・・・の両聯も、訪客に異様な眼をらした小さな板碑や五輪の塔が苔蒸してる小さな笹藪も、小庭を前にした椿岳旧棲の四畳半の画房も皆焦土となってしまった。この画房は椿岳の亡い後は寒月が禅を談じ俳諧に遊び泥画を描き人形を捻る工房となっていた。椿岳の伝統を破・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・私ばかりじゃなかった、昼は役所へ出勤する人だったからでもあろうか、鴎外の訪客は大抵夜るで、夜るの千朶山房は品詩論画の盛んなる弁難に更けて行った。 鴎外は睡眠時間の極めて少ない人で、五十年来の親友の賀古翁の咄でも四時間以上寝た事はない・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・面や畔の樹の梢を籠めているほどの夙さに起出て、そして九時か九時半かという頃までには、もう一家の生活を支えるための仕事は終えてしまって、それから後はおちついた寛やかな気分で、読書や研究に従事し、あるいは訪客に接して談論したり、午後の倦んだ時分・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・ くだらないことばかり言っている。訪客あきれて、帰り支度をはじめる。べつに引きとめない。孤独の覚悟も、できている筈だ。 もっともっとひどい孤独が来るだろう。仕方がない。かねて腹案の、長い小説に、そろそろ取りかかる。 いやらしい男・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・ 君は苦しいか、と私は私の無邪気な訪客に尋ねる。それあ、苦しいですよ、と饅頭ぐっと呑みこんでから答える。苦しいにちがいないのである。青春は人生の花だというが、また一面、焦燥、孤独の地獄である。どうしていいか、わからないのである。苦しいに・・・ 太宰治 「困惑の弁」
・・・いまの三鷹の家に就いても、訪客はさまざまの感想を述べてくれるのであるが、私は常に甚だいい加減の合槌を打っているのである。どうでも、いい事ではないか。私は、衣食住に就いては、全く趣味が無い。大いに衣食住に凝って得意顔の人は、私には、どうしてだ・・・ 太宰治 「無趣味」
・・・意外な人間の訪客に驚いているであろう。おそらく経験のない蝋のなめらかな表面には八本の足でも行き悩んでいるようであった。 こんな所でも蠅が多い。峰の茶屋で生まれたのが人間に付いて登って来たものであろうか。焦げ灰色をした蝶が飛んでいる。砂の・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・ 私は近ごろT氏がすべての訪客を拒絶するという記事にたびたび出逢う。私はあれほど親切で優しかったT氏がそのような残酷をあえてし得るのかと不思議に思っている。なぜなら、私はT氏を訪ねて行く若い人たちのまじめに道を求める心持ちに、今なおある・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫